ゆいま~る拝島 暮らす人々の声

山と仕事とスケッチと~登山と百貨店業界を極めた居住者が語る「ゆいま~る」での暮らし


ゆいま~る拝島に、百貨店業界のトップを走り続けてきた田邊壽さんが住んでおられます。御年91歳。ブルーデニムをおしゃれに着こなすセンスはさすが、三越、プランタンの一時代を担ってきただけあります。山に魅せられ、29歳でヒマルチュリ峰(7864m)初登頂を果たしました。現在、来年行われる「山のスケッチ展」に向けて、作品作りに励んでいらっしゃいます。ゆいま~る拝島での暮らしを中心に、現役時代のお話も聞かせいただきました。自然と都会、静と動の異なる世界を極めた田邊さんの魅力をご紹介します。

デニムを着こなす田邊さん(91)

 

■二人暮らしからスタート■

――ゆいま~る拝島にはどのような経緯でお入りになったのでしょうか。

「家内の具合悪くなってね。3階に2人部屋が空いている、ということで入居を決めました。前社長と知り合いだったので、ゆいま~るのことは聞いていたんです。私は青梅の出身で、山に囲まれて育った。ここからは山が見えますし、脇には玉川上水が流れていて自然が豊かです。家内も入居を望んでいました」

 ――入居してしばらくは、おつれあいの介護生活だったのでしょうか。

「家内は週3回透析に通っていましたからね。そのころは家内の看病しか頭になかったです。かかりっきりでしたね」

――家事やお食事はどのようにされていましたか。

「食事は、最初のころはゆいま~る食堂『ひだまり』で食べていました。その後は自炊したり。家事は大好きなんです。大学時代(慶應大学)は実家から出で、自炊生活でしたからね。何の抵抗もなくて」

――残念ながら、2014年におつれあいはお亡くなりになったと聞きました。

「しばらく力が抜けちゃってね。2~3カ月ボーッとしていました。
そんなある日、友だちに誘われて国立美術館の展覧会に行った。そうしたら、そのすぐ近くの公園に、大きいゴジラの像があって。そのゴジラを見たとたんに、シャキッと気合が入ったんですよ(笑)。
それでね、10日経って、『俺はゴジラで復活したぞ!』と、みんなに手紙を出したんです」

 ――なぜゴジラだったのでしょう。大きさとか、訴えかけてくるものがあったとか、カツを入れられたとか?

「うん、そう。やっぱり、荒々しさでしょうね。ゴジラのね。なぜか、ゴジラの像を見た瞬間に、鬱々としていたところから復活した、元気になったんです」

おつれあいと猫のチロ

 

■一人暮らしになって■

 ――お一人になって、今のお暮らしはいかがですか。

「ここはすごく居心地がいいんですよ。部屋は5階に移りましたが、丹沢から奥多摩、秩父の山々が一望できるんです。夜明けてよし、夕焼けでよし、お月様でよし、1日ここにいて眺めていても飽きない。お天気さえよければ」

――日々の暮らしで気を付けていることはありますか。

「ここ3年くらい、玄米を食べています。友だちが鳥海山のふもとで百姓をやっていて、勧められまして、三食玄米なんですよ。
朝は5時半には起きて、前の晩に研いで水につけておいた玄米を炊きます。朝食は、玄米とちょっとしたおかずと納豆と卵。今日の昼は、炊いた玄米と市販のお惣菜、じゃがいもの揚げ物ですませました。夕食は、ほとんど自分でおかずを作ります」

――健康的ですね。消化のほうは大丈夫ですか。

「よく噛んで食べるから大丈夫。それで、すっかり元気になりましたね。自分でもよくわかります。玄米食が身についてから、活力が出る、気力が出ます。加齢とともに足が弱くなるということはありますが、気力が出て、しゃべっていてもかなり気合いが入っているでしょう」

――たしかに、オンラインでお話していても、お疲れの様子はありませんね。
自炊もするとのことで、買物が大変ではありませんか?

「だいたい週に1回、スーパーまで市販のお惣菜などを買いにいきます。おかずになるものもたくさん売っていますのでね。
まとめ買いですから、かなりの荷物になるんですが、仲良しのタクシーの運転手に頼んでいます。買い物も手伝ってくれて、ここまで送ってくれる。タクシーの運転手とは友だち付き合いです」

――食事のほかに気を付けていることはありますか。

「週3回、マシンを使ってトレーニングをしています。今日も午前中行ってきましたけど、ランニングマシン2回で30分とか、だいたい午前中1時間半くらいトレーニングします。玄米同様、元気の素だと思いますね」

――かなりの頻度でトレーニングしていらっしゃって驚きました。

「足がちょっと弱ってきているので、トレーニングとは別に歩くことを始めました。ゆいま~るの脇の玉川上水沿いにずっと歩いて行くと、春は桜並木が続いてとってもいいんですよ。月・水・金は午前中トレーニング、あとは歩くことを始めたという感じです」

 ――弱ってきたから出るのを止めようではなく、鍛えようと考え実行に移されるところが若さの秘訣だと思います。
午前中はトレーニング、ウォーキングということですが、午後はどのように過ごされていますか。

「BSやNHKのテレビを見ることが多いですね。地球が誕生したときとか、文明史的な番組が好きで、そういう番組を見ます。見応えがあって、面白いですね」

チロと一緒にくつろぐ田邊さん

 

■登山とスケッチ倶楽部■

――若いころは登山、そして今は山の絵を描いているそうですね。

「高校で山岳部を立ち上げ、慶應大学では山岳部に入部、三越に入社後も日本山岳会に入会し、1960年に慶応大学ヒマルチュリ峰登山隊に参加し初登頂を果たしました。
山を通じて、冒険家の植村直己さんとか、そうそうたる人たちに会いましたが、自分があの世に行ってその人たちに会っても、ちょっと敵わないなあ思って、スケッチを始めたんですよ。
世界の大陸の最高峰をスケッチして歩きました。南米のアコンカグア、北米のマッキンレー、アジアのエベレスト、ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、これらを全部登れないから、スケッチして歩いたんですよ」

――世界の名だたる山をスケッチとは、登山とは別にすごいことですね。

「もともと日本山岳会の中にスケッチ倶楽部というのがあった。山の好きなスケッチ屋の集まりなんですが、誘われて入りました。
それまで描いていたのは、どのルートを登ろうかというようなルート図的なスケッチで、山が美しいから描くというのではなかった。スケッチ倶楽部に入ってからは、きれいな山を描きためて、2cmくらいの厚さのスケッチブックが40冊くらいありますよ」

 ――展覧会も開催されているとか。

「毎年2月に行い、もう6回になります。この前、最後の展覧会やらないかとスケッチ倶楽部から連絡があってね。スケッチ倶楽部全員の作品展と、メンバー1人の作品展を同時に行うんですが、来年は私が個人で作品を展示することになりました」

 ――作品作りは始めているんですか。

「新しい絵は、14~15枚になるでしょう。かなりの大きさになる作品もあるので、来年に向けて、描き始めたところです」

――それは楽しみですね。

「じつは、3~4年前にやりたかったのですが、ものすごく反対にあって、つぶされたんですよ。『最後』というのが早いだろうと(笑)」

 ――来年でも早いのではないですか。人生100年時代、まだまだ大丈夫そうです。

「いや、もう、来年で92ですからね。もういいんじゃないんですか(笑)。
最近、絵を描いていてよかったとしみじみと思いますよ。からだを鍛えるのはできるけれど、人間的な、何というか、素養を身に付けるということは、なかなかできない。でも、絵を描くことでこころを豊かにしたり感性を磨くことはずいぶんあると思います。
体力だけじゃないですね。よく生きようと思ったらね。体力以外のことをやらないとだめです」

 ――いろいろな経験をされて、多くのものを蓄積されてきたのですね。

「学生時代から今日まで何十年という間に、山の仲間を大勢失っているんです。最近になって、妙に気持ちに還ってくる。もう1回、拝み直しているんです」

山の雄大さが伝わる作品

 

■三越、プランタンの一時代を築く■

 ――せっかくの機会ですので、現役時代のことも教えてください。大学卒業後に三越に入社し、長年、百貨店業界で第一線を走っていらっしゃいました。

 「私は恵まれていたんですよ。三越で岡田茂*、ダイエーで中内功、ダイエーホークスで王貞治。こういう人に次々と仕事をさせてもらったんですからね。だから、この人たちに会わなければ、私の人生なんてもっと索漠とした人生だったでしょうね」
*流通界の革命児と評されたが後に特別背任で有罪

――田邊さんに彼らを引き寄せる魅力がおありだったのではないでしょうか。復帰前の沖縄で三越を創業、社長に就任されました。

「それも面白いんですよ。沖縄に三越を作ることは決まっていたんですが、体力的にああいう暑いところで働ける社員がいなかったんですよ。どうしようかというときに、社長が『エベレストに登ったやつがいたろう』と。それで私が館内放送で、沖縄三越出店会議に呼ばれて、社長から『君は沖縄へ行って仕事ができるか』と言われたんです。私は何も知らなかったけれど、沖縄か、面白い!と思って、『すぐに行きますよ、大丈夫です』と答えました。
パスポートが必要な時期に沖縄に行って、沖縄三越を創業し社長となり、その後本店の要職につくことになったんです」

 ――オ・プランタン・ジャポン社長にも就任されています。プランタン銀座がオープンしたときは、これまでにないおしゃれな新しい百貨店ということで、ずいぶん注目されていました。

「岡田社長がいわゆる『三越事件』を起こす前に、社長とチャンバラになって放り出されたんですが、それをダイエーの中内さんが拾ってくれたんです。フランスの百貨店プランタンと契約が決まって銀座に1号店を作るということで、『君、社長やれ』と言われました。あの頃、日本の百貨店は古い体質でしたから、下から何人も追い抜いて社長になるなんてまずなかった。中内さんもすごいですよ、変なやつをいきなり1号店の百貨店の代表にしたんですからね(笑)」

 ――その後、ダイエーホークス社長に就任された。

「いきなり、プロ野球ですから、これも驚きました。私は運に恵まれているんです。おかげでいい人生になりました」

2016年に自叙伝を出版

 

■日本のいいところを見て回りたい■

――今後は、どのようなお暮らしを考えていますか。

「日本の方々に行ってみたいというだけで、あまり欲はないです。子分みたいな存在の車好きの仲間が3人いて、日本ならどこへでも連れて行ってくれるんです。日本の中のいいところを見て回ろうと思っています。
山岳部の若者が北海道根室市でウイスキーで大成功したんですよ。だからその工場を見て、知床を回って、鳥海山にも行きたいですね」

 ――ここ数年コロナで外出できなくなっていますが、また遠出ができるといいですよね。

「自然はコロナを食えないから、じっと待っていれば、美しい日本がまた見られますよ(笑)。
自分が楽しければ、コロナが来ても楽しいですからね。まあ、コロナのお茶漬けでも食べて、あとは余生を送りますよ(笑)」

山という「自然」に魅せられ、一方で「都会」の象徴である百貨店に勤めてこられ、さらに身体を使う「動」の登山、じっと観察する「静」のスケッチと、相反するものを極めてこられた田邊さん。両極をうまく取り入れ独自の世界を作り上げてこられたところが魅力となって、一流の人たちを惹きつけたのではないでしょうか。
へこむばかりでなく、「コロナも楽しんでしまう心意気」を私たちも見習いたいと思います。来年の展覧会が成功しますよう、スタッフ一同応援しています。

(2022/3/11インタビュー)

 

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2022年03月28日

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