ゆいま~る中沢に併設されている「介護保険外ショートステイなかざわ」は病院退院後、すぐに自宅に戻るのは少し不安な方、急なショートステイの先としてなど、介護保険にとらわれることなく利用できる介護・医療の隙間を埋める新しいサービスです。
実際にご利用された方のきっかけや、その後のくらしなどを伺いました。
大須賀紀子さん
(次女・60歳)
今年4月に「ゆいま〜る中沢」のショートステイ(介護保険外サービス)を利用された佐藤正さん(95歳)と奥様の甲子さん(88歳)が、5月から「中沢」の介護フロア(グループハウス)に入居されました。近くにお住まいの一人娘、大須賀紀子さんはほぼ毎日ハウスにみえて、ご両親のお世話をなさり、親子の時間を大切に過ごされています。ご利用から約3ヶ月。「不思議なことがたくさんありました。一言で言えば『両親の再生』を目の当たりにしているのです」とおっしゃる大須賀さんに、その「不思議」と「再生」をじっくり伺いました。
Q:「ゆいま〜る中沢」をご利用になるきっかけを教えて下さい。
大須賀 実は「中沢」を利用する前に1年間、両親は別の有料老人ホームにいたのですが、1年契約にしていたため、契約を更新するかどうかの判断が迫っていました。このままずっとホームにお世話になろうか、それとも違うところに移るべきか迷っていたんです。
というのも、そこはホテルのようなおもてなしを大事にされていて至れり尽くせり。痒いところに手が届き、何もかもやっていただけるので、居心地はとても良かったのですが、父の表情を見ていると、日に日に俯きがちになってしまったんです。
ホームにとって入居者はお客様。何かあったらいけない、事故は未然に防ごうという姿勢があって、例えば父が動こうとすると、「じゃあ、一緒にいきましょうか?」とスタッフの方。父にしてみれば、「頼んでいないのに、なぜ来るんだ? 放っておいてくれ」となります。そんなことを繰り返すうちに、父の顔からも体からも活気がなくなり、自分は「必要のない人間だ」と思いこみはじめるという感じに。母に至ってはあまりに恵まれ過ぎて、依頼心の固まりみたいになってしまって何もしない。私がどんな時間に訪ねても、ベッドで寝ているか、ソファに横たわっているか。昼間に目をあけているということがほとんどなかったのです。
Q:ご両親様が有料老人ホームに入られた経緯をお聞きしていいですか?
大須賀 父と母は2人暮らしをしていたのですが、今から4年前の10月16日、母がお昼ご飯が終わったら、突然「足が痛い」と言って動けなくなってしまったのです。それで父から電話が来て、「お母さんが動けなくなった。なんだかわからないのだけれど、動けないんだ」と。もうそのあとは坂道を転げ落ちるように、頭の中にあったものが無くなって、いろいろなことが「わけがわからない」状態になってしまったのです。
父が母の介護をし、食事の用意をして掃除、買い物全部やっていて、私も毎日、多摩市の自宅から調布市の仙川にある実家までお昼ご飯と夕飯を持って通っていました。
父は「ありがた迷惑だ」なんて言いますから、「わかった、だったら明日から行かないから。野垂れ死んでも知らないわよ」みたいな言い争いをしながらでしたけれど(笑)。「お前が来ると空気が動いてうるさいんだ」なんて言われますから、行かないでいると、「今日はどうしたんだ?」と電話がかかってきたり。そんなふうにしながら通っていましたが、父も少しずつですが弱ってきて、母と同じような状態になりつつあるな……と感じ、いずれは老人ホームを利用する必要があるかもしれないと思い始めていました。
父は、「俺は絶対に老人ホームには入らない。必要ない」と言っていたのですが、1年前のお正月に、自宅で転倒してテーブルの角にぶつかり、肋骨を2本折ったんです。それで3日間寝たきりになり、動けなくなって、それまでできていたことができなくなってしまいました。そして父自身が、「もうこれは無理だな」と言ったので、母が倒れて以来、私が1人で見学に行った老人ホームのパンフレットを見せたのです。
有料老人ホームへは何カ所か見学に行きました。パンフレットももらっていたのですが、父が「行かない」と言うので、1カ所を残して捨ててしまったんです。あるホームのパンフレットだけは捨てられませんでした。というのは、そこのスタッフのお一人とのやり取りが忘れられなかったからです。私が「営業をまったく抜きにして、もしもあなたのご両親がうちの両親のような状態になった時に、ここのホームに入れたいと思いますか?」と聞いたんです。そうしたらそのスタッフの方が即答で、「もちろんですよ」とおっしゃったんです。それが忘れられなくて、そのホームのパンフレットだけはずっと手元においておきました。
父が肋骨を折った時に、そのパンフレットを改めて出しました。「お父さん、こういうところがあるんだけれど」と。「うん、そこだったら行く」と父が言い、それで両親の入居を進めました。
Q:有料老人ホームにはすぐお慣れになったのですか?
大須賀 それが入って数ヶ月はダメでした。父は「家に帰る」「もうダメだ」と言い、
1回はホームを飛び出してしまいました。馴染めなかったんですね。ただ、その時の施設長さんがとても素敵な方で、ホームの利用者は家族ですとおっしゃってくださったんです、「私の家族です」と。そのお気持ちがホーム全体に空気として流れていて、スタッフさんに厳しい方でしたが、ご自分にも厳しくて、それでいて入居者に対してはとても暖かい目を向けてくださって、父たちを安心してお願いできると思える方でした。その方への信頼から、父もだんだん落ち着いてきたのですが、入居して半年目に突然、施設長さんがお辞めになったんです。それがわかった父は、「あの方がいなくなったら、俺はここにいても意味がないな。仙川に(自宅に)戻るか」と言ったんです。
Q:それが「中沢」との出会いにつながっていくのですね。
大須賀 そうなんです。ちょうどそのホームに入る頃、「ゆいま〜る聖ケ丘」ができたことを広告で知りました。その宣伝文に「その人の自由な生活はそのままで」という言葉があって、これが私には忘れられず、ずっと頭にありました。それから1年後「中沢」ができるという新聞広告を見たのですが、うちから5分と非常に近い。しかも同じ建物の中にクリニックが入ると書かれてあって、これが父にとっても私にとっても一番の魅力だったのです。
提携している医療機関から訪問看護があり、ショートステイもあるという情報を得て、今年の1月、私一人で「中沢」の開設準備室におじゃましたんです。そして実際に内容を詳しく聞いた時、ここは父が一番求めていた、「やりたいことがやりたい」、それが実現できるところなのではないかと思いました。
しばらく迷ったのですが、父に、今のホームの契約が終わるのだけれど、ここにずっといるという選択もあるし、実は私の家に近くにこういうところができるのよと、私は聞いてきた「中沢」の話をしました。すると父はもう即答です。「それは行くしかないな」と。「えっ、どうして? ここはなんでもやってくれるし、ありがたいんじゃない?」と私は聞きました。父は、「それはそうなんだけれど、建物の中に医者がいる、というのは最高だよ」と言ったんです。
「じゃあ、見学に行こうか?」と父を誘い、「中沢」はまだできていなかったので、「聖ケ丘」のお部屋を一緒に見学しました。その時に父が言ったのが、「これは普通のうちだな」、という一言でした。あっ、これはだいぶ父の気持ちが動いているなと思ったのですが、それからしばらく私の方からは「中沢」の話を出さずに、下調べをしていました。両親が入るとしたらどの程度までお世話していただけるのかが知りたかったからです。「中沢」の準備室で話をうかがうと、ほとんどホームの時と同様、横滑りのような感じでみていただけそうだとわかり、父にその話をしたら、「いつ引っ越すんだ?」「引越しは明日なのか?」とそればかり言うようになって、これはもう「中沢」に行くしかないと思い、ホームの契約が切れる日を待って出たのです。その時の決断は、私にとってはものすごく大きな賭けでした。
Q:「賭け」とはどういうことか、少し詳しくうかがってもいいですか?
大須賀 というのは、以前のホームに入った時に、父がとても拒否して、「家に帰る」と言った話をしましたが、実際に大変だったんです。「もう明日で帰る」「荷物をまとめて玄関に行く」……というような毎日があり、それでもやっと1年間かけてスタッフさんに慣れ、周囲の環境に慣れてきた。その時にまた違った環境(「中沢」)に移すというのは、もしかしたら以前よりも大混乱を起こして、大変なことになるのではないかと、そういうマイナス面しか考えられなかったんですね。私の家族、とくに主人から猛反対を受けました。「年配の人にとって環境が変わるということがどれだけ大変なことかわかっているのか? 俺は絶対に反対だ」と言うのです。
主人は、「俺の親ではないから、俺がとやかく言えた義理ではない」というのが基本的な考えの人です。当事者ではない人間があれこれ言うと、私が混乱するだろうから、やりたいようにやってみたらいい。それでもしも助けが必要だったら、俺はいつでも出るよ、と。それが基本の人なのに、ホームを出ようと思うと話したら反対したのは、入居直後の両親の大混乱を知っていたからです。父が荷物をまとめて出て行く、ということがあった、また同じ事を父親にやらせるのはあまりにも自分中心で両親にとってはひどいことではないか、とこれが主人の考えでした。
Q:その反対の声を押し切って、「中沢」への住み替えを考えられた理由は?
大須賀 1つは地理的なことです。「中沢」は私の家から歩いて5分のところにあるので、両親に何かあった時にすぐに駆けつけられます。また、万が一、2人のうちのどちらかが入院したら、一人娘の私は入院先の親と「中沢」に残る親、そして自分の自宅のことをやらなくてはいけません。まだ仙川に実家が残っているので、そのこともやらなくてはいけない。そう考えると、私自身が最初に倒れてしまうだろうと思ったのです。ですから私のためにも、「中沢」に決めたかったんですね。もしも両親が馴染めず、ぐちゃぐちゃなことになったら、その時はその時で、介護のプロの方がいっぱいいらっしゃるのだから、皆さんの力を借りよう、それに賭けるつもりで思い切って決めました。
あと、もう既に社会人になって何年かたっている2人の息子がいるのですが、彼らは私の話を聞いて、「いいと思うなら、後悔するより先に進んだほうがいい」と背中を押してくれたんです。ただ、なぜお世話になったホームを出たいのか、そこをきちんと整理した方がいいよとも言われました。そうしないと、両親にとっても私にとっても、またお世話になったホームの方々にも失礼な話なのだから、と。つい感情が先に立って動いてしまう私にとって、家族の声は大事なものでした。
今年3月に父が腰椎の圧迫骨折のため車椅子生活になったこともあり、まず両親で「中沢」のショートステイを利用して、父は隣接する新天本病院の外来リハビリに通って足腰の回復を目指す。母はデイサービスに行く。そして環境に慣れてきたら、施設内の同じ階にある介護フロアの「グループハウス」に移り、「中沢」での生活を本格的に始める。そうしたことをスタッフの方と相談して、1年お世話になったホームを出たのです。
Q:まずショートステイを利用されたそうですが、感想はいかがですか?
大須賀 父は自分で「中沢」に行くことを納得したのに、来てみるとやはり「拒否」をしました。廊下からお部屋に入らない。お部屋のドアの取っ手を持って立ち尽くし、私が「お部屋に入ろう」と誘っても頑なに拒否するばかりでした。果たして夜は大丈夫だろうかと思いましたが、とにかくお願いするしかないと思って私は家に戻ったんです。ところが翌日、父の顔を見に行って驚きました。「前からここにいたよ」みたいな感じでくつろいでいるのです。たった1日でどういうことをしてくれたのか、それがとても不思議でした。
スタッフの話 初日は確かにかなりの「拒否」がありました。そのためその日の夜は遅くまでスタッフがリビングでお父様、お母様とテーブルを囲みながら、お互いにただそこにいる、という状況を作りました。そうしたら「眠くなったから寝るか」とお父様。お母様はそれにともなって「私も行くわ」とお部屋に向かわれました。
大須賀 それが「中沢」に越してきて3日目に母の表情がとても変わったんです。ここの共有スペースのリビングでお茶を飲んだあと、皆さんが飲んだお茶碗を母が洗っている。母がテーブルも拭いている! 日中は目をあけて皆さんと楽しそうに話をしている。以前、自宅にいた時の母の表情が戻ってきたように思ったんです。たった3日でこんなに変化するなんてとびっくり。あれが一番大きな、いい意味でのショックでした。
スタッフの皆さんが両親を暖かく迎えてくださって、でも、至れり尽くせりではないんです。さりげなく母に仕事を頼んでくれるんですね。「テーブルがちょっと汚れているから片付けてもらえないですか」と。そうすると母が、「あらあら……」とか言いながら、さらさらさらっと自然に動くんです。
スタッフが入居者にあれをやってあげます、これもやってあげます、というのではなくて、日常の延長のような形で母をうまい具合に動かしてくださっている、これがとてもいいのです。
スタッフの話 大須賀さんは私たちに「前の施設は母を女王様のように上げ膳据え膳してくださった。でも、こちらでは母を女王様のようにしないでください」と希望されていました。
そこで私たちも、お母様に、「ここは普通の生活の場ですから一緒にやってください」とお願いしました。「私だって主婦をしてきたんだから、できるわよ」とお母様。テーブルを拭いていただくなど頼むと、「しょうがないわね」と腰をあげられ、キッチンに行き、水を出して布巾を洗う、お茶碗を洗う、ということもなさられるようになったのです。テーブルがきれいになったので、お茶を飲みませんかとお誘いすると、お茶を飲まれ、そんな団欒の時間の中で笑顔が出てきて、お母様も、そしてお父様も昔の話をしてくださるようになりました。
大須賀さんの子ども時代の子育ての大変さなども出てきて、事前に伺っていたお母様とはまた違う、凛としたお母様が見えて来ました。
「中沢」のダイニング
大須賀 本当にびっくりしました。皆さんは母に役割をくださった。それもごく自然に、普通の生活としてやらせてくださっている。その中でしっかりしてきた母を見ている父の表情が、まるっきり自宅にいた時と同じなんです。それがすごいなと思ったことの1つです。
実は父はろっ骨を折った頃から、「俺は生きていてもしょうがない」とか、「死にたい」と口にすることがありました。父はなんでも自分でやりたい人なのですが、骨折して以降、自分でできなくなったことがたくさんあります。立つことも人の手を借りなければいけない。それが情けなくてしょうがない。ですから「死にたい」と口にする。私はわりとなんでも言ってしまう娘なので、父がよく、「首にかける縄は細いのと太いの、どっちがいいと思う?」などと聞くので、「私は細いほうだと思う」。「どうして?」、「太いのは結ぶのが大変じゃない」「そうだなあ、それは大変だなあ」と父が答えるそんな会話をしてしまうのですが、内心はいつかそうなってしまうのかなという怖さがありました。
「中沢」に来ても、父は「死にたい」と口にすることがあるようなのですが、父に対して、スタッフの方がじっくりと向き合ってくださっている。それも父が安定してきた一番の理由ではないかと思っています。
スタッフの話 お父様の「死にたいけれど、どこで死ねるかな?」という言葉に対して、スタッフはどう対応したらいいのか。これは私たちの中でも課題でした。
お父様は動くことができるので、実際の行動に移すことも考えられました。スタッフ全員で、お父様が「死にたい」と口にされる言葉の裏側に何があるのか、そこの部分を考えながら、ただお話に耳を傾ける、傾聴することに徹しました。
こちらから「娘さんが悲しみますよ」と言った言葉を発するのではなく、とにかく聴くことを大切にしました。ご本人 の話が終わった時には、ただ、本当に私たちは一緒にいますから安心してくださいという姿勢をお伝えしていました。
大須賀 そこなんです。いろいろなことは何もしなくていいから、ただ向き合って、そばにいてくださる。その時間の使い方、心遣いの細かさがありがたいのです。今でも時折「死にたい」と口にすることはありますが、父は「中沢」の中で、自分の居場所を見つけた気がします。どこに行っても自分を受け入れてもらえる、そういう安心感が父の中にできてきたのではないかなと思うんです。
先日、お隣の新天本病院の外来リハビリに、車椅子を押して父を連れて行きました。帰りのことです。病院の前に、どこかのホームのお迎えの車が来ていました。私が何気なく父に、「前のホームだったら、病院まで車で送り迎えしてくれて楽だったわよね」と言ったんです。そうしたら父が、「いやいや、お前はわかっていない。絶対に今のほうがいいんだよ」と。私は思わず聞きました。「どうして?」と。父は言ったんです。「だって、自由だもの。お前にはわからないだろうけどなあ」と。
「中沢」に来て、私は両親の気持ちの再生を見ているようです。たまたまなのですが、うちに枯れている木がありました。水をやっても何をしても芽が出ず、ダメだった木だったのですが、ある日、芽が出て、葉っぱが出てきて……。その様子が私には両親の姿とだぶって見えました。手をかけすぎる介護ではなく、大事な部分をピンポイントですっと支えてくださる。それにより、父たちが自力で芽を出した。私が今回の入居で得たのは「父と母の再生」でした。
この先もプロの方々の支えを得ながら、両親をみて行きたいと思っています。
介護保険外ショートステイスタッフとの一枚
ゆいま~る中沢 外観写真