暮らし、見守り、見守られ、生き切り、逝った母
(注) 本記事は、ゆいま~る那須で暮らす櫛引順子さんが一般社団法人コミュニティネットワーク協会が発行する『100年コミュニティ』2017 60号(2017年11月1日発行)に投稿した記事を、了解をいただいてここに再掲載したものです。
今夏、ゆいま~る那須で暮らしていた櫛引美智さんが亡くなられました。最期まで自分らしく生き旅立たれた美智さんのゆいま~る那須での生活、そして容態の急変から逝去、友人たちに見守られるなかで執り行われたハウスでのお別れ会までの流れを、娘であり共同生活者であった順子さんが振り返ります。
<執筆●ゆいま~る那須 櫛引順子>
参考になった隣人のお別れ会
今年2017年8月10日、母・美智はデイサービスへ向かう車の中で体調が急変。救急搬送され、搬送先の菅間病院にて、同日午後3時47 分、急性心不全で逝去しました。享年92でした。
母は「ピンピンころりで逝きたい」と常々話し、私は「本人はいいかもしれないが、周りは迷惑」と返していました。
思い起こせば昨年4月、私と母がゆいま~る那須に入居した数日後に隣の方が急逝されました。90歳を越えて1人暮らしの男性でした。入居の挨拶に伺うと、「男手が必要なときはいつでも言ってください」としっかりとした口調で対応してくれました。前日まで食堂で食事をされていたそうです。
彼のお別れ会は、ゆいま~る那須の自由室で行われました。好きだった音楽を流し、参列した入居者の方々が献花。家族の方が故人のお人柄、暮らしぶりを語る簡素で心癒される温かいお別れの会でした。
その様子を見て母は、「私もあれがよい」と言いました。入居時にいただくライフプランに記入する際、葬儀の参考にさせていただきました。母からは「お棺に掛けてほしい」とパッチワークの壁掛けと、「葬儀で流してほしい」と音楽テープを預かりました。バッキー白片のハワイアンと宮城道雄の「春の海」でした。
東京にいた頃よりも楽で安心
不便も覚悟のうえで入居を決めたゆいま~る那須でしたが、送迎車「ゆいま~る号」の利用で病院への通院や買い物は東京にいたころより楽になりました。ハウス内の催しは、音楽カフェ、喫茶「ゆいま~る」、映画会、居酒屋と多彩で、人との交流の機会も増えました。私の友人も入居しており、母とも旧知の仲でしたのでそれも大きな安心となりました。
入居して半年が過ぎた頃、フロントと相談をして要介護認定の申請をしました。「1人で『ゆいま~る号』に乗って出かけたい」が母の希望でした。その後要支援1に認定され、デイサービスの利用を検討することになりました。リハビリができるデイサービスを条件に事業所を見学し、今年2月から「おひさまデイサービス」に毎週木曜日、送迎付きで通い始めました。マッサージを受け、機械を使って体操をし、昼食を食べて帰る半日の利用です。外出プランにも力を入れているところで、3月には道の駅「那須の与一の里」へ出かけ、つるし雛を見てお菓子など買ってご機嫌で帰ってきました。「良いときに行き始めた」と喜んでいました。
6月にデイサービスで母の誕生会がありました。大きなケーキを前に嬉しいそうにほほ笑む母のステキな写真を記念にいただきました。「よい写真をもらった。遺影にちょうどよい」と、2人で話し合いました。通夜、お別れ会ではその写真を使うことになりました。
ルールを決め、親子で共同生活
母は北海道出身で、1 0 代のときに母親、兄、妹と共に上京。幼くして父親を亡くし、祖父母、叔父のところで育ったそうです。母は顔の右額から目の周りに生まれながらのアザがありましたが、化粧でそれをカバーし、おしゃれのセンスを磨き、アザを気にさせないように生きてきたのだと思います。人に後ろ指をさされないよう、ルールを守り、注意深く暮らした人でした。
私は若い頃、母がアザを隠していることが父との問題に蓋をして生きていることと重なると、母に反発しました。そのこともあり、就職を機に家を出て友人と共同生活を始めました。当時は共同生活をすることが流行っていて、私も高校の友人と暮らしたり、一軒家を数人で借りて暮らしたり、いろいろな暮らし方をしました。
母と再び暮らすようになったのは、平成元年(1989年 )からです。当時、私は1人暮らしをしていました。母も離婚してパート勤めで1人暮らし、弟は就職して関西に行っていました。正月に私が風邪で寝込んでしまったとき、母も不調だったことを知り、改めて一緒に住むことを提案しました。親子ですが共同生活者として家事やお金のルールを決め、2人の暮らしが始まりました。
その後、母は生活科学研究所の生活コーディネーター養成講座を受講。60 歳を過ぎてから大阪のシニアハウス江坂で正社員として働くことになりました。そして私も生活科学研究所へ転職し、一緒に大阪で働くことになりました。
仕事をともにすることで、母の仕事場での有能さを知ることになります。几帳面で丁寧な仕事ぶりでした。住み込みの生活コーディネーターは大変そうでしたが、やりがいのある仕事を得て、給料を自分の裁量で使えることもうれしかったようです。私の友人が大阪まで来てくれて一緒に食事をしたとき、テーブルいっぱいに注文の品を並べて、嬉しそうにもてなしてくれたことを思い出します。
そういえば今年の春、母は2回のお花見をしました。デイサービスとゆいま~る那須のお花見です。デイサービスのお花見では南湖団子を3箱買って帰って来ると、「すぐ渡しに行く」といって旧知の友人を訪ねました。うれしそうで満足そうな笑顔でした。「友達は大事にしなさい」と母から言われたのはこの頃です。人を喜ばせること、人前に出るときは身支度を整えて、工夫を重ね、きちんとすることを貫いた母でした。
自由室で行ったお別れ会
デイサービスへ行くための準備は、数日前から始めます。最後となった日も2日前には身体マッサージを受け、当日着ていく服をいくつか並べていました。前日は私も少し手伝って髪洗し、当日は選び抜いた服を着て「靴下は黒」としっかり指定。化粧を終え迎えの車を待つ間「、眼鏡、補聴器、入れ歯」と自分で指さして確認。髪は1週間前、デイサービスでカットしてもらったばかりでした。
その日、デイサービスの送迎車を見送ってから30分が過ぎた頃、車を運転していたスタッフから母の容態の急変を告げる一報が入りました。すぐフロントへ連絡を入れ、入院準備をして搬送先が決まるのを待って、ハウス長とともに病院に向かいました。病院に着き、東京に住む弟へ連絡すると、仕事で上野に向かっているとのこと。仕事をキャンセルして来てくれました。
医師から「危ない」と告げられ、「今日、明日ですか?」と聞き返すと「数時間です」といわれました。母とは「延命治療はなし」の確認をしていましたが、私は驚き、慌てました。弟が到着して間もなく、母は息を引き取りました。木曜日で翌11日は祝日。1 2 日の土曜日に通夜、13日の日曜にお別れ会をゆいま~る那須の自由室で行いました。
しっかり後ろ姿を見せて逝った母
今思い返すと、私が母をゆいま~る那須へ連れて来たように思っていましたが、母がいたから、母に背中を押してもらったからこそ那須に来られたのだと思うようになりました。母は「おひとり様」の私を心配していたのだと思います。友人がいて、生活コーディネーターがいて、いろいろな集まりがあるゆいま~る那須での暮らし、緑豊かな環境に安心したのだと思います。
お別れ会の前に、私は母の化粧直しをしました。アザが見えていたので、ファンデーションを塗り、粉をはたいて目立たなくしました。化粧をしない私ですが、母が「見せたかった姿」は大事にしたいと思いました。
母との暮らしの中で喧嘩もしましたが、母が好きなもので私も楽しめるものを探し、逆に私の好きなものに付き合ってもらったり。コンサートに出かけ、おいしいものを食べに行ったりと楽しい時間を一緒に過ごしました。母を見守り、母に見守られたのだと思います。
母はしっかり後ろ姿を見せて逝きました。私も友達を大切に、ハウスのみなさんに見守られ、見守って、笑って生きていきたいと思っています。合掌。