ゆいま~る中沢 暮らす人々の声

居住者に聞く戦争体験【14歳で海軍へ。たまたま助かった命】


グループハウス中沢にお住いの村井英郎さんは御年94歳。
若いころの戦争体験について、貴重なお話を聞かせていただきました。
「ゆいま~る」の居住者の中には、過酷な戦争体験をお持ちの方がいらっしゃるということをあたらめて知る機会となりました。
居住者インタビュー「特別編」としてご紹介いたします。

散歩を楽しむ村井さん

 

14歳で海軍に志願

村井さんは、昭和16年、高等小学校を卒業して14歳で海軍に志願し、入隊したそうです。志願した理由は、「当時の若者にとってあこがれだったから」。
「電信柱に軍隊募集のポスターが貼ってあったんですよ。かっこいいなと思ってね。親には内緒だったから、合格通知が来たとき、母親は寂しそうな顔をしていましたよ。当時は嫌だと言えないからね。送り出すしかなかったんでしょう」

志願と言っても14歳だったので、航空兵か通信兵にしか志願できず、通信兵として横須賀海兵団(神奈川県)へ入団。「何も知らずに入ってしまった」村井さんはその厳しさに早くも後悔し、1週間後に面会に来てくれたお兄さんを前に、涙があふれて仕方なかったそうです。

2カ月の訓練を経て、久里浜海軍通信学校(神奈川県)でさらに9カ月教育を受けた村井さん。モールス信号を覚え、1分間に120字くらい書けるようになったそうです。
通信学校にいたころ、村井さんたちはある日「東京見物」に出かけるように指示がありました。その日は昭和16年12月8日。真珠湾攻撃の日でした。村井さんたちはもちろん一切聞かされていませんでした。偶然なのか、機密のためだったのか、今となってはわかりません。

9カ月後、無事に卒業したものの、成績があまり良くなかった村井さんは、軍艦に乗ることができませんでした。しかし、軍艦に乗った人たちは皆、米軍の攻撃で撃沈、亡くなってしまったそうです。
「成績が良くないことは自慢になりませんが、今となってはよかった!」

 つらかった軍事訓練

村井さんは陸上勤務となり、航空隊に転属を命じられ、木更津基地(千葉県)に配属。木更津では、米軍の空襲にあったこともありました。
その後、村井さんたちの部隊は千歳基地(北海道)に移動しますが、軍隊の訓練はつらいものでした。

「ずいぶん暴力を受けました。殴られるんですよ。手では殴らない。鉄のパイプでね、尻を叩くんです。毎晩、毎晩。痛いですよ。一番痛いのは、5回目くらいなんです。10回目くらいになると麻痺しちゃって、あまり痛く感じない。私が勘定した中で1番多かったのは21回でした」
「理由なんかないんですよ。古い兵隊が難癖をつけて、一人ずつ出て来いと言って。夕方寝る前に『集合!』と言われてね」
80年近く前の記憶でも、はっきり覚えている村井さん。「5回」「21回」というリアルな数字がすらすらと出てきます。忘れようにも忘れられない当時のつらさが伝わってきます。

 命の儚さと重さを…

その後、ラバウルを皮切りに、サイパン、ペリリュー島、フィリピンのセブ島と、激戦地と言われる南方への移動が続いたと言います。幼い村井さんは、通信学校で無線通信の教育を受けたものの、実際は電報を運び届けるという仕事だけ。もちろん、中身も知らされていません。昭和18年くらいの頃は、まだ日本が強く、「アメリカの戦闘機が撃墜されるところをずいぶんと見た」そうです。

ラバウルからサイパンに移動するとき、忘れられない別れを経験します。
「今はコロナが流行っているけれど、当時はマラリアが流行っていてね。私と同年のOが罹ってしまって。最初はOが先に出発する船に乗り、私は後から出発の船に乗ることになっていた。Oがマラリアになって、42度を超える熱が出て、船に乗れなくなった。それで、私に『先の船に乗ってくれ』と船の順番を交換したんですよ」
先の船に乗った村井さんは無事にサイパンにつきますが、後の船はアメリカの潜水艦に攻撃されて皆亡くなってしまったと言います。
「あのとき、マラリアが流行っていなければ、私は後の船に乗って亡くなっていた。Oとは同い年でずっといっしょだった。Oは長野県出身で、顔もよく覚えていて思い出しますけどね。本当は親御さんに話してあげたかった」
こうした偶然が重なって生きてきた村井さんを通して、命の儚さと重さを感じます。

サイパンからペリリュー島、さらにフィリピンのセブ島に移動することになった村井さん。7~8トンもある輸送船で、一般人を乗せた別の船も船団を組んでついてきていたそうです。
ところが、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、船が傾いてしまいます。
「幸いなことに、なかなか沈まなくて、5、6時間経ったころに、救助船が来て助かりました。私はケガをしていなかったので救助船に乗れましたが、けがをしている人たちは乗らせてもらえなかった。私の足をつかんで『兵隊さん、助けてください』と言った女性がいましたが、助けられませんでした。自分で歩けない人は、船に乗せてくれない。たぶん、その女性は船と一緒に沈んでしまったのではないかと思います」

漂流することは本当に大変なことだそうで、「聞いた話ですが、必死に泳いでいるうちに疲れて、浮かんでいるものにつかまる。長く漂流していると、つかまっているのもしんどくなってきて、手を離せば沈んでしまうけれど、あまりにつらくて、生きている方が楽か、沈んだ方が楽かと思ってしまう、と」。
そこまで極限の選択を迫られるのだそうです。

船への攻撃はたまたま1回だけ、魚雷が当たったのは村井さんがいた反対側。「たまたま助かった」こうした経験はキリがないと村井さんは話してくれました。

「負け戦」と感じるように

セブ島についたのは昭和19年。
山の中の農家からトウモロコシなどの農作物を取って、飢えをしのいでいたそうです。「日本の兵隊が怖いのか、若い女性は一人も見ませんでした、皆怖くて隠れていたんです。一度、農家のおばあさんが、何も言わないで、私の顔をうらめしそうな顔をして見ていたことがあります」

19年も年末になるころには、村井さんも負け戦だと感じるようになったそうです 。
「アメリカ軍が上陸してくるときは、艦砲射撃がすごかった。戦車とか、私たちが知らないようなすごい武器を持ってきた。防空壕を作っていたけど、全部射撃で壊されてしまう。そこにいられなくて、後方に下がった」
しかも、アメリカ兵は戦いに力は入れておらず、雨が降る日は休んでいるし、日曜日もお休み、昼だけ攻撃に来て、夜はさっさと自分たちの陣地に戻ってしまっていたそうです。「無駄な攻撃はしてこない。日本の兵隊なんか相手にしていなかった」と痛感したと言います。

また、当時、聞いた話では、アメリカ軍の攻撃の先頭は黒人で、そのころから黒人差別があったと感じていたと話してくれました。

特攻の「命」を受ける

戦争も末期に入り、村井さんたちがいた航空隊でも特攻隊として飛び立つ若者たちがいたといいます。
「出発前は赤飯やぼた餅、ふだん食べられないものが食べられる。でも、全部食べずに、残っている人に食べてくれと言い残して、出撃していったと聞きました」と村井さん。行きたくなくても従うしかありません。

そして、ついに、村井さんにも「爆弾を抱えてアメリカの戦車にぶつかっていけ」という命令が出ます。
「5キロくらいの爆弾でした。まあ、5キロくらいですから、軽いんですよ。だけど、こう、背中に背負ったらね、ずいぶんと肩に食い込む感じがしてね。歩こうとするんですけど、足がすくんじゃってね。その時、死ぬというのがどんなにか嫌なことかと思いました…」
戦車が通る道路に穴を掘って隠れていて、戦車が来たら飛び出して行ってぶつかる、という命令でした。行けば帰ってこられません。

「ところが、直前になって、現在の状況を後方の本部に伝えるという命令が出て、私は背負った爆弾を下ろして報告に行って、危機一髪、逃れることができたのです」
言葉も出ない体験です。

戦争に負けて日本へ

8月15日は、フィリピンのセブ島で迎えましたが、まだ負けたのかどうかわからなかったそうです。アメリカの飛行機がビラを撒き、そこには、「日本は戦争に負けた、出て来い」と書かれていたと言います。
降伏した日本兵たちが1カ所に集められ、半年くらい待ってようやく日本の船が迎えに来ました。

「帰りの船に乗るところでは、フィリピン人が大勢来ていてね。悪いことした日本人を覚えている。埠頭に並ばされた日本兵たちを見て、フィリピン人が指をさしたり、名前を呼ばれたりすると、船に乗ることはできないんです。こっちにこいとアメリカ兵に引っ張っていかれて、戦争犯罪人になってね。そのあと、どうなったのか」
よくある名字の人は皆呼ばれてしまったそうです。村井さんは無事に帰国船に乗ることができ、ようやく日本に戻ることができました。

若い人たちへの思い

村井さんは、千葉県銚子市出身。まずは実家に行きますが、空襲で家が焼かれてしまい、親の出身地であった同県東金市に向かいます。その後、東京の姉のところへ行き、ようやく村井さんの戦後がスタートします。

75~76歳のころ、「孫たちに伝えたいと思って、『最下級兵の軍隊経験』という冊子を自分でパソコンを使って作りました」と村井さん。当時の南方の地図や、写真も入れた冊子です。

もともとは5人兄弟で、村井さんが志願して最初に入った横須賀海兵団に面会に来てくれた一番上のお兄さんは、沖縄で戦死、今は兄弟もおつれあいも亡くなりました。

縁あって、ゆいま~る中沢に入居され、現在はグループハウス中沢に住み替えられている村井さんは「戦争は絶対反対です」とおっしゃいます。

貴重な戦争体験を聞かせていただき、本当にありがとうございました。

お元気で暮らしを楽しんでいます

(2021年2月7日インタビュー)

 

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