自分らしく暮らし、父はゆいま~る拝島で最期を遂げた

―――― 認知症を患い要介護度は5に進んだが自室で大往生


ゆいま~る拝島で2年半を過ごし、亡くなられたお父様の暮らしぶりについて、娘さんにお話をうかがうミニ講演会が、2016年夏に開かれました。ウィスキーを片手にタバコをくゆらせる夜の読書を無上の楽しみとし、自由と自立を何より大事にするお父様は、ゆいま~る拝島の前はマンションで1人暮らしでした。しかし、認知症に加えてパーキンソン病で足元が危なく、難聴もあって要介護度は3。火元の管理が危うくなって、見守りがある環境に移ることを娘さんは決意され、ゆいま~る拝島に辿り着きました。そして自分らしい暮らしを続けながら約2年半後、自室で娘さんの手を握りながら静かに息を引き取られました。その間、2度の入院などさまざまなことがありました。しかしご本人がライフプラン(エンディング・ノート)にも書いた明確な意思をあくまで大切にし、訪問診療の医師やハウス長がサポートする中で娘さんが明確な判断を下し、最後は「救急車を呼んで病院に戻ることにはしない」という方針をチーム全体で共有した看取りの体制を組み、死亡診断書に「老衰」と書かれる最期を遂げられました。お名前等は伏せて、ご講演の内容を再生しました。


ゆいま~る拝島

2016年夏、ゆいま~る拝島でミニ講演会を開催

認知症+パーキンソン病+難聴でマンションに1人暮らし

私の父は約2年半、ここ「ゆいま~る拝島」に住んで、まさに自分らしく最期まで暮らすということを実現できました。本人にとってもそうですが、家族にとっても、とても良い、非常に貴重な体験でした。こうして皆さんにお話できること、分かち合えることをとてもうれしく思います。この写真は、食堂の前で撮ったものです。このように父は、終始ごきげんに暮すことができました。入居したときの年齢は87歳。亡くなったのは89歳で、あとひと月で90歳になるときでした。

ここに入居したとき、すでにアルツハイマー型認知症と診断が出ていました。また、パーキンソン症候群で足元がおぼつかず、歩行の不安定さがありました。さらにそれに加えて難聴でした。補聴器は付けていましたが、筆談でないと会話ができないほど、かなり重い難聴がありました。介護度は要介護3でした。

最期まで自宅として暮せる場所でないと・・・

まず、なぜサービス付き高齢者向け住宅に入ろうと思い、なぜゆいま~る拝島を選んだのか、そこをお話したいと思います。

父はマンションで1人暮らしをしていました。でも、ある年の年初、正月が明けた頃から、父の様子がどうもおかしいと思い始めました。それから私は、毎日様子を見に行くようにしました。夕食は宅配のお弁当をとっていましたが、もう届いているのに「届いていない、届いていない!」と言い始めたり、とにかく物忘れが本当にひどくなってきました。短期記憶が消えてしまうのです。一時期は、私を他の人と間違えるようなこともありました―――これはすぐに元に戻ったのですが・・・。

一番不安に思ったのは、火の扱いです。あるときマンションに行ったら、なぜかブレーカーが落ちていて真っ暗な中に、ヤカンをガスコンロにかけたまま、火がボウボウと燃えているのです。その横に、本人がぼーっと座っていました。それを見たとき、これは本当にもうだめだ、1人暮らしは無理だと思いました。集合住宅ですから、もしも火を出したら周りの方にも迷惑をかけてしまう。本人だけではすまない。そういうこともありまして、真剣に、これは見守りのあるところに引っ越そうと思いました。

ただ父は大正生まれで、戦前の教育を受けた頑固者です。自分が納得しないと、変化を受け入れることができないのです。これは、私たちもみんなそうですけれども・・・・。私がよかれと思って提案したことでも、なかなか本人がすんなり受け入れることは難しい。しかも認知症なので、一つのことを理解するのに時間がかかるし、難しかったのです。

そういう前提があったのですが、一つだけはっきり分かっていたことは、とにかく自由と自立を重んじる人なので、父にとって少しでも自分らしい選択ができる生活を続けることができるところはどこかを考える中で、最後に絞られてきたのは有料老人ホームかサービス付き高齢者向け住宅の二つの選択肢でした。そして、やはり最期まで自宅として暮せるサービス付き高齢者向け住宅だろうという結論に達しました。それなら父も「行ってみるか」と言ってくれるかもしれないと思いました。当時はサービス付き高齢者向け住宅がどんどん出来てきた時期です。今ほど選択肢はなかったと思いますが、いろいろ調べた結果、私は「ゆいま~る」がよいと思いました。

父の住み家を決めるに当たって、私にとって大事なポイントが三つありました。

大事な三つのポイント
―――①質の高いケア ②退去させられず最期まで ③料金

一つ目は,ちゃんとしたケアの理念があって、本当にちゃんとしたケアをしてくれること。要するに、質の高いケアを受けられるかということです。

二つ目は、多分一番重要だと思ったのですが、たとえ重度になっても、最期までいられるかどうかということです。というのは、もう認知症だというのは分かっていた。しかもアルツハイマーですから進行することは分かっていました。当時は要介護度3でしたが、5になるかもしれない、本当に重度になるかもしれない。そうなったとき、認知症に対応するグループホームでも、有料老人ホームでも、まわりの入居者に迷惑をかけるような状態になれば退去させられるかもしれない。その中で最期までいられるのは特別養護老人ホーム(特養)だけなわけですが、父の一生、生き方を考えたとき、食べたいときにご飯を食べられない、お風呂に入りたいときにも入れない―――そういう管理されたところでは耐えることはできないと分かっていました。最期までいられる、しかも自分らしくいられる場所を考えたとき、ゆいま~る拝島だと思ったのです。

いろんなサービス付き高齢者向け住宅があると思うのですが、ここゆいま~る拝島は「外部サービス利用型特定施設入居者生活介護」脚注)にもなっていることで、老人ホームに近い布陣で、かなり重度の人でも手厚いケアを受けられる体制になっています。このような機能を備えたサービス付き高齢者向け住宅は、非常にユニークなのではないかと思います。これは、本当に決め手になりました。

三つ目のポイントは、経済的な問題です。経済的にここで暮らすことが可能なのかどうか、いろいろ計算しました。有料老人ホームより、こちらの方が経済的にも助かる。父の年金の範囲内でやっていける目算もつきました。健康な父なので、もしかしたら10年くらいはお世話になるかもしれないなと思い、その前提で計算しましたが、大丈夫だろうと。

そういうわけで、三つのポイントをクリアできました。そもそもゆいま~るシリーズに、私は興味がありました。本当に一人ひとりを大切にするケアを目指しているところだという印象がありました。施設ごとにいろいろな特徴がありますが、この拝島は、とにかく手厚いケアが最期まで受けられる、そこが一番の魅力でした。

素敵な自然環境、毎日見える富士山を自慢してくれた

それに加えて、ここの環境が非常に気に入ったのです。目の前に玉川上水があって、素敵なテラスがあって、春には桜並木にいっせいに花が咲いて、本当に美しい。もう、ここにいるだけで癒される自然環境がある。近くに多摩川べりがあって、遊びに行けるような楽しいところもたくさんある。

父はずっと登山を趣味にしていて、自然の近くにいることがすごく大事なポイントでしたので、そこも魅力でした。父の部屋は5階にあったのですが、毎日目の前に富士山がくっきりと見えるのです。だから私が行くたびに「今日は富士山がこれくらい見える」と自慢してくれるのですね。そういう、日々自然を愛でる楽しみもありました。

あと、家族としましては、駅からの近さ、歩いて4分で来られるという、この利便性も大きかったですね。

悠々と生活を楽しんだ
―――最初はデイサービス週2回とヘルパー(掃除)週2回利用

父がここに入った最初のころはどういう状態だったか、お話します。デイサービスに週に二日行き、掃除のためにヘルパーに週2回来ていただきました。足が弱って歩けなくなることを本人は非常に心配していたので、デイサービスのうち週1回は足の筋肉を鍛えるためのリハビリ系のデイサービスでした。そのくらいのメニューであれば、経済的にもまったく問題なく、余裕のある生活ができました。

これは、ここでの暮らしをスタッフの方が撮ってくださった写真です。多分、夏。納涼祭のときですね。ここはいろいろなイベントが催されていて、父は難聴なのでみなさんとそんなに会話できないのですけれども、けっこう積極的に参加して楽しんでいたと思います。

この写真は町会のお祭りのときの写真。夏なので半そで。こんな感じで楽しそうです。

この写真は、ここの食堂ですね。スタッフの方の息子さんがこうして一緒に座ってくれて。私には子どもがいないので父に孫はいないのですけれども、こうやってスタッフの方が連れてきてくださったお子さんを孫代わりといいますか、楽しい時間を過ごしていました。本当にここでアットホームな雰囲気の中で、家族のように接していただいたのですね。

これは、私がすごく気に入っている写真です。本当に父らしい姿です。食堂の外のテラスで、缶ビールを片手に、焼きそばですかね、これは。じつにマイペースで悠々と楽しんでいる。これが本当に父らしい表情でもあって、こういう生活が続けられたこと、しかも見守りがあって家族が安心していられる中で、続けられたことに心から感謝しています。

趣味は読書と小さな買い物、お酒とタバコも続けた

このサービス付き高齢者向け住宅の良いところというのは、“自分の家”であって“施設ではない”ですから、自分が出かけたいときには外出できることです。父の趣味は読書とちょっとしたお買い物でした。近くに図書館がありますので、そこにはもうしょっちゅう行っていました。自分で電車に乗って一駅ですかね。そういう点でも駅に近いのは非常に助かりました。それと立川までもすぐ出られますので、ちょっとしたデパートでのプチお買い物、紅茶をちょっと買うとか、お菓子を一つ買うとか、そのくらいのささやかなお買い物なのですが、それも楽しみだった。

また父はお酒とタバコを最後までやめなかった。本当はその二つはなんとかやめて欲しいとずっと思っていて、いろんな手を使ったのですけれども、ここは自分の部屋であればタバコを吸えるのです。本当は良くないことだと思うのですが、不燃性のカーテンを付けて、家族もいろいろ気を付けながら、なんとか・・・幸いにそんなにヘビースモーカーでもなかったので、好きなタバコを最後まで楽しむこともできましたし、ビールを飲んだり、ワインを飲んだりして楽しむことができた。こういうのは、老人ホームにいたら、とてもできないことですよね。

あと、自分の好きな時間に起きて、寝る。長年の習慣なのですが、父は読書が趣味でしたので、ウィスキーを片手にチビチビやりながら、夜ふけまで本を読む ――― これが最大の楽しみだったのです。それを自分のペースで続けることができた。要するに誰にも管理されずに自分の自宅として暮らすことができた。もちろん自分の使い慣れた親しみのある家具を持ってくることができましたから、自分の気に入っていた本棚とか、特に父にとって大切だったのは机だったのですが、その机を持ってきたり、ダイニングテーブルを持ってきたり、すべて今まで使っていたものをそのまま持ってきて、要するにマンションからマンションに引っ越してきたようなものです。そういう、自分の生活を途切れのない形で続けることができたのは非常によかったと思います。

父と温かい時間を過ごせたのは、プロによる介護のおかげ

この写真は、近くの大きな藤、タクシーで1メーターで行けるくらいの距離だったと思いますが、父は写真も好きでけっこう撮っていたので、こういう所にも行きました。父が普段のペースで暮らすのを、こちらのスタッフの方が見守ってくれる。そういう安心がありましたので、私はもっぱらここに来たときは、父と外出する。こういういろんな所に景色を見に行くか、食事に行くとか、お買い物に付き合うとか、そういう楽しいことの担当でした。

これは奥多摩にある見事な大いちょうを見に行ったときの、89歳の誕生日の日の写真です。娘が見ても、本当に柔らかで幸せそうな、満ち足りた表情ですね。ここに来るまでは、こういった表情をかつて見たことがなかったのです。心から安心していたのだろうなと思うと同時に、私との関係性のことを考えます。

つまり家族で介護するのではなくて、精神的にもちゃんと距離を保てるプロの方々が本当に充実した介護をしてくださったことで、私は父と良い時間を過ごすことに専念できたわけです。それまで父と、ここまで親密に温かい時間を過ごしたことはなかったのではないかと思います。それほど良い時間を、この2年半、いただいたのです。

それまで近くにいたときは、何かと細かいことで「お父さん、運転やめてよ!」とか「危ないからコレやめて!」とか、ちょっとギスギスすることもあったと思うのです。やはり私もストレスを感じていましたから、どうしても優しくなれないところもありました。父のほうも、なんだかんだ言われて嫌だったと思います。

そういう意味では、ここに来てから、親子の関係というものが、非常に良くなったと思うのですね。晩年の2年間に撮った父の写真は、今までの50年くらいの間に撮った中でもベストショットだと思っています。今も、この写真を私の部屋に大きく飾っています。大好きな表情です。

最後の半年、まずは部屋で転んで入院することに

そんなわけで自分らしく楽しく暮らしていたのですけれども、最後の半年は、やはりちょっと大変でした。入居して2年が過ぎた3月、どうも歩き方がおかしいことにスタッフの方が気付いてくれたのです。足を引きずって歩いている、と。それで検査を受けてみたら、慢性硬膜下血腫になっていることが分かったのです。かつて転んだときに脳内で内出血を起し、それが固まって脳を圧迫していると言われました。ちょうど運動機能をつかさどる部分を圧迫していたために、歩きづらくなっていたわけなのです。自分の部屋ですから、誰かが24時間見ているわけではないので、多分、夜中に転んだのだと思うのですね。でもそれが回りの人には分からない。血を出したり目に見える外傷があれば分かりますけれども、それがなかったために慢性化して血腫になっていたのだと思います。血腫を取り除かなくてはいけないので、入院しました。

この時が、試練の始まりと言いますか・・・。認知症の人ですから、自分が何で入院しているのか、忘れてしまうのです。何回言ってもやっぱり忘れてしまうし、点滴がつながっていると、「これ、なんだ?!」という話になってしまいます。

そうすると病院の方では拘束したい、ということになるわけです。私は身体拘束は絶対に嫌だと思いまして、病院に泊り込みました。ですけれども、この時の父の状態を私は初めて24時間体制で見たわけですけれども、そもそも前立腺肥大があって、頻尿だったのです。ですから夜中に何回も起きて、トイレに行こうとするわけです。手術後、もう1回頭を打ったら元も子もないという状態のときに、夜中に無理に起きてトイレに行こうとする。オムツは絶対に拒否ということで、どうしても自分でトイレに行きたいと。それで泊り込んでいる私も1時間ごとに起きて父と一緒にトイレに走るのですが、間に合わない。だから夜中に6回くらいビショビショになってしまったパジャマを替える―――ということを三日やって、倒れそうになったのですね。

それでゆいま~る拝島の(当時の)ハウス長鈴木恵子さんに、「こういう状態ですが、完治はしていないけれど、連れて帰っていいですか」と相談しました。そしてこちらに帰って来ました。1週間入院と言われましたが、4日で退院して帰ってきて、みなさんに迎えていただきました。

その時は幸いに認知症状が進むこともなかったのです。当然のことながら自分がそんな処置を受けたことは忘れてしまっているのですが、特に問題はなく元の生活に戻れたかのように見えたのですね。

今度は足の裏を火傷して入院

ところが・・・、その時に要介護度は5に上がりました。もう少し安定して歩けるようにリハビリのメニューを増やしたり、見守りがもう少しないと心配だということでデイサービスを増やしたりしました。そういう風にメニューを変えたりして1カ月経ったところで、次の試練が始まってしまいました。

それは、足の裏の火傷だったのです。自分で夜中にお風呂に入ってしまって、お風呂のお湯の設定を間違えてしまったために、かなり熱めのお湯が出てしまった。急性の火傷になるような熱湯ではなかったのですが、熱めのお湯に足がずっと浸かっていたということで、足の裏を火傷してしまったのです。それで、いよいよ絶対に歩いてはいけない状態になってしまったのです。

その時、私はちょうど海外出張でいませんでした。父が認知症になるまでは、とても海外出張が多かったのですが、父の容体の変化によって海外の仕事を多少減らさなければなりませんでしたけれども、ここで父が暮らすことができたおかげで、私は仕事をやめないですみました。この時も、とにかく入院するしかないし、入院中はどうすることもできないので、出張を途中で切り上げることなく、予定の仕事を終えてから帰ってきました。

その時の写真がこれです。さっきの、ここでニコニコ暮らしていた状態から、私が出張前に見た父親とは、まるで別人のように変わってしまっていました。入院中、やはり何で入院しているのか本人は分かりませんから、点滴は外そうとするし、足の裏を火傷しているのに歩こうとする。ということで、病院側はついに拘束するということでした。この時ばかりは、私もウンと言わざるを得なかった。でもそうすると、当然ながら認知症は一気に進みます。廃人になってしまったように変わってしまった。ほとんど目を開けませんし、食事もしない。これはもう本当に大変なことになったと思いました。

歩けないまま戻るか、リハビリ病院に行くか

危機感を感じ、「これはもう病院にいてはどうにもならない」と思いました。足の火傷がある程度直らないと、確かに歩けません。無理に立とうとしたら、また悪化して、そこから感染してしまうかもしれない。それが心配だったために、ある程度直るまでは入院していてもらいたいと思っていましたけれど、火傷はほぼ大丈夫というところまで来たので、ここで本当に苦渋の決断をしました。

このとき選択肢としては、このまま歩けない状態でここに帰ってくるのか、もしくはリハビリ病院に転院するのか、の二つがありました。これは本当に苦しい選択でした。もしリハビリ病院に行って歩けるようになったらどうなるのか。歩けるようになったら、おそらくまた危険な行動を続けてしまう。もうすでに、自分の部屋を間違えて他の入居者の方の部屋に行ってしまって、それこそ夜中の2時に人の部屋に行ってしまってご迷惑をおかけするといったことが度々あったのですね。

やはり“自分の家”に帰って最後まで暮らす

身体の自由があることとないこと。もちろん自分の意識がはっきりしていて、歩けるようになって、元の生活に戻れるということが、理想ではあります。でも現実としてそれはできないわけで、リハビリ病院に行って歩けるようになっても、もうゆいま~るには居られなくなる。さすがにここが要介護5の人まで見られるといっても、あまりに他の入居者の方たちにご迷惑をおかけして、しかもまた夜中にお風呂に入るといった危険な行動を繰り返すようになったら・・・、さすがにここのキャパを超えてしまう。そうなると、もう特養しかない。

たとえ歩けるようになったとしても、特養では管理された生活になって、自分らしい生き方というものもできなくなってしまう。おそらく、そういうところに行ったら、1カ月ともたなかったのではないかと思います。多分、すぐに生きる気力を失って、身体状況も悪くなって、早くこの世を去ってしまっただろうと思います。

そういう道を選ぶのか、もしくは歩けなくなって車椅子でも、最後まで自分の部屋で暮らすのがよいのか・・・。この決断を迫られたわけなのです。ケアマネジャーでもある鈴木ハウス長にも相談して、いろいろなオプションを考えました。結論としては、やはりここで最期まで、“自分の家”で暮らすことを選ぶことにしたのです。

本人に相談できなくなったが、方向はぶれなかった

そのとき、父に直接相談することはもう出来ませんでした。でも元気なときに、そういう話はしてあったのです。ゆいま~るでは、入居時にライフプランというものを書きます。そこで、自分が最期はどうして欲しいのか、意思表示をきちんとしておくというシステムがあります。それとは別に、父と私は、そういう話をしていました。だから父が何を望んでいたかは、ちゃんと分かっていたのです。「自分の足で歩けなくなったら、この世に長居はしたくない」―――父はきちんと書き残してもいました。胃ろうとか、人工呼吸器といった延命措置は一切いらない、自然に任せてくれと、それが父の意思だったのです。

この人の生き様を娘として知っていますから、とにかく最大限の自由と自立を持ちながら、自分の家で最期を迎える―――それが何よりも望みだということは、もう明らかだったのです。娘としては、それをどうかなえるか、そこだけなのです。私の都合で安心・安全なところに行って欲しいということで特養に入れるといった選択肢は、あり得なかったのです。

ですから、ここに帰ってくるためにどうするか。それは、スタッフのみなさんにとっては、なかなか大変なことだったと思います。やはりこれだけ重度の人を、しかも認知症があって、自分が置かれている状況を認識できない、無理をして危険な行動を繰り返す人を、どうやって最期まで看取るのか。ですが、迎える決断をしてくださった。

この写真は帰ってきたときのシーンなのですが、こんな感じでみなさんに温かく迎えていただいた。最後までいられる布陣を整えていただいたのです。

こうして、長年親しんだ机や本棚がある、これさえあれば自分の家という感じのする部屋に帰ってきました。でも最初の頃は、何かぼーっとして、いったい自分がどこにいるのかよく分からないといった状態でした。いろいろまわりを触ったりして確かめて、ようやく、これはどうやら帰ってきたらしいと気が付いたようでした。

「余命1週間」と言われて非常事態モードに

ですが、要介護度が5になったこともあり、しかも非常に見守りの強化が必要だということで、デイサービスを最大限増やすなどのケアプランを作っていただきました。そしてスタッフの方々が、シフト以外でも、とにかく時間があったら見に来て声をかけてくださった。病院であれだけ認知症が悪化してしまった大きな要因は、話しかけてもらったり刺激を与えてもらうことがほとんどなかったことです。用がない限り、放っておかれるわけです。

そんなことをしているうちに、目覚めてはきたのですが、この時、一時的に脳貧血を起したと思われることがありました。そして訪問診療のお医者さまから、「あと、余命1週間」と言われてしまったのです。血圧が大幅に下がっていて、そのときから私たちは非常事態モードに入りました。

ゆいま~る拝島でも、父の完成期のケアというシフトを組んで、そのスケジュール表などもいただきました。それによると、1時間おきに巡回して父の様子を見る。私がいないときは、30分おき、あるいは15分おきに様子を見に行く。介護スタッフだけでなく、手が空いている人は全員シフトに入る。それだけの手厚いスケジュールを作ってくださいました。

頻繁にかけてくれる温かい声がけで持ち直した

ところが幸いなことに、持ち直してきたのです。これが!

この写真のように、目が少し開いてきまして、自分のまわりも分かるようになってきました。どうやら、余命1週間ということはなさそうだということが分かってきて、私たちの非常事態モードも解けてきて、少しずつ安心していきました。やはり声かけですね。頻繁に、しかも温かい、家族同様の、家族以上に心のこもった声をかけてくださった。

この写真は食事介助の風景ですが、このように食堂の方が食べやすいようにいろいろ工夫してくださいました。流動食、きざみ食、そして少しでも美味しくなるように味付けを工夫していただきました。このように介助していただいているうちに、だんだん食べられるようになってきました。最初は、エンシュア・リキッドという高栄養の液体しか飲めなかったのですが、これだけではなくて、自分の口で食べられるようになってきたのです。そうするとやはり体力も付いてきて、身体を起せるようになってきました。

この写真はひげそりの風景です。病院にいる間は、多分1度もひげをそってもらっていませんでしたので、非常にむさ苦しい姿になっていました。けれどもこちらでは、こういったこともきちんとやっていただきました。髪の毛もチョコチョコ切っていただいて、小ざっぱりしました。だんだん身体状況がよくなってきて、下の食堂にも行ってみようということにもなりまして、この写真のような感じで、3人がかりではありますけど、車椅子への移乗もできるようになりました。

この写真の頃は、さすがに病院ベッドを入れたり、車椅子やポータブルトイレをレンタルしたりしました。ベッドにいる時間が長くなってしまったので、床ずれを起さないように自動的に体位を変えるようなマットもレンタルしました。また部屋の中に入浴車というかお風呂車のようにものを持ってきて部屋で入浴できるサービスを利用したり、この時はお金を使いました。あとどれくらい残っているか分からない父の時間のクオリティを上げるために、いろいろなサービスを最大限使いました。

排泄の問題は大きかった

この結果、おかげさまで、車椅子で下の食堂まで行って、そこで食事ができるようになりました。本人は自分の状況を理解できないので、車椅子から立とうとしたり・・・。

そしてトイレ。父の問題で一番大きかったのは排泄だったと思います。どうしてもオムツに慣れることはできなくて・・・。リハビリパンツというものをはいていましたから、別に失禁しても大丈夫だったのですけれども、やはり父にとっての尊厳の在り所というのは、そこだったのだろうと思います。どうしても自分でトイレに行きたいと、そのために尿意を催すと、とにかく立とうとする。それが一番の心配の元でした。

ですから見守りができるようにということで、ここの食堂にできる限り置いていただいたり、時にはスタッフルームの中に、みなさんがいろいろお仕事をしている間に横に父が座っていたりしました。あとはデイサービスの時間はデイサービスに行って、本当に手厚く見守りをしていただきました。

そうはいっても、やはり部屋に一人でいる時間もありましたから、夜中に立とうとして転んだらどうなるかという心配はあったのですが、それには離床センサーというものを付けていただきました。ベッドから下りて足が床に着くと、アラームが鳴ります。スタッフの方が駆けつけると本人は床に転がったりしていたようですが、でもそういった対応をしていただきました。

もう骨折しても仕方ないと開き直った

でも結局、私たちが考えたのは、父にとって何が大事なのかということです。彼にとっての人生の質とは何なのか、結局はそこだったのだと思うのです。つまり、もう転んで欲しくないといった私の安心が大事なのか、もしくは父がたとえ骨折したとしても―――結局は骨折しないですみましたけれども―――人に迷惑をかけない範囲で、自分らしい行動をできる限り続けていくことなのか。こういったことは、それぞれの家族の、いや家族というより本人ですね、一番大事なのは本人の価値観だと思いますが、それを最後まで貫くかどうか、そこにかかってくると思います。

最後は、私はもう骨折してもいいと開き直ることにしました。ただそれも、開き直る判断をするための材料が必要でした。本当に開き直っていいのか、本当に骨折したらどうなるのか、そういうところまで考える必要がありました。これに関しては、訪問診療のお医者さまが「ひかりクリニック」というところから来ていただいていたのですが、そこのお医者さんたちの助けが非常に大きかった。最期の頃は、そのひかりクリニックの先生と、ケアマネジャーの鈴木さんと私の3人で何回もカンファレンスをやりました。そこで、あらゆる考えられる事故や困難を想定して、こういうときはどうしよう、ああいうときはどうしようという打合せをきちっとしました。

私が一番心配したのは、大腿骨骨折でした。つまり手を折るとか、腕を折るとか、足を折るとか、それだったらまぁ入院しなくても何とかなる。けれども、さすがに大腿骨骨折の場合は、また病院に行かなくてはならないのか。それは心配でした。父の生活の質を考えると、もう病院だけは行くまいと、これだけは心に固く固く決めていました。

で、大腿骨骨折についていろいろ調べました。そうしたら海外の文献の中に、病院に行っても行かなくても、予後は同じだという研究のデータがちゃんとあったのです。ですから、最後はもしそうなってしまったら、モルヒネを使って痛みをコントロールして、ごく自然にどうにかなるのに任せればいいという結論に達することができたのです。

これで、私の心配はすべてクリアされました。あとは、ゆいま~るのスタッフのみなさんも覚悟を決めてくださっていましたから、家族の覚悟もできたのであれば、本当にここで最後までお世話になろうと、大船に乗った気持ちでいることができました。

最後の暴言・暴力もスタッフはうまくかわしてくれた

本当に大変だったのは、最後の半年間だけでした。入院をきっかけに認知症状が大幅に悪化して、身体的な機能も落ちて車椅子になり、失禁が続くという大変なときがありました。でもそれまでは、父に認知症の周辺症状はまったく出ませんでした。幸いなことに、“物取られ妄想”もなかったですし、暴言・暴力もなく、ニコニコとご機嫌に暮らすことができたのです。それはやはり、人間の尊厳がきちっと守られている、そういうケアをしていただいたからだと思うのです。亡くなる最後の2カ月前まで、周辺症状はまったく出ませんでした。

でもさすがに、車椅子の生活が続いて、いよいよ自分は歩けないのだということが分かってきた頃、暴言・暴力が出るようになってきました。私なんかから見ると、車椅子になっても自分だけでいられるのだから、そんなに悪くないんじゃない?って思ってしまったりもしたのですが、やはり父にとっては、自分の足で立ってどこにも行けないというのは、もう自立を失うこととイコールだったのです。その頃から、おそらく、かつて自分でもちゃんと書いてあった通り、これはもう長生きしてもしょうがないなと、自分の望む生活はもうできないんだなと、そこらへんから考え方がきっと変わってきたのだろうと思うのです。

歩けなくなったことで、自分が弱い立場に置かれたという不安もあっただろうと思います。そういうこともあって、ついに最後は暴言・暴力が出るようになりました。スタッフが腕を貸そうとすると、「うるさい!ばかやろー!」と言ったり、手を払いのけたり、そうした暴言・暴力が出るようになってしまったのですが、それにもめげずに、みなさんはうまいこと父をかわしながら、払われそうになるとすごい反射神経でさっとよけたりして、なんとかあしらいながら見てくださいました。

これがグループホームだったら、おそらく間違いなく退去でしょうし、特養でも、もしかしたら一部拘束ということもあり得たかもしれない・・・。それは分かりませんけれども、とにかくここは父の自由と自立を最期まで尊重するようなケアをしてくれました。

眠っている中で、安らかに静かに息を引き取った

ですから、2カ月後に本当に身体状況が落ちて行ったとき、何か、うらやましいくらいの大往生を遂げることができました。私はその頃、ちょうど日本にいて、最期まで見守ることができました。余計な延命措置は一切いらないという父の意思ははっきりしていましたから、酸素吸入器を使う以外は特に何もしないで、私はただそばにいて手を握っているという・・・。そして最期を迎えたとき、お医者さまの診断書に死因は老衰と書かれました。これ以上ないくらい安らかに、本当に眠っている中で静かに息を引き取りました。

私だけで向き合っていたら、不安になったかもしれない

もしこれが在宅だったら、不安になっていたかもしれません。いろんな本を読んで、いろいろな知識は、多分あったと思います。セミナーにも行ったりして、できるかぎり備えようと思っていました。でもひとりで向き合っていたら、最後はちょっと、やはり不安になってしまったかもしれない。でもここでは、誰かがいつもそばにいてくれる。

そしてお医者さまとのカンファレンスを経て、絶対に救急車は呼ばないということを徹底していただいたのです。どんなことがあっても、病院に戻ることはしないと。家族がオタオタしたりせずに、またスタッフは何か異変があっても救急車を呼ぶ前に必ずハウス長の鈴木さんに連絡するという体制を整えてもらいました。そういう安心した状態で、ひとりではなく、みんなで意思統一した上で、本当に父親にとってベストなことをしているのだという気持ちで、看取りができました。

ですから、終わったときは、さわやかと言っていいくらいの、一種の達成感を感じたのですね。「やった!」って。「父の望むとおりに最後までやり遂げることができた!」って。本当に幸せでした。

誰かを看取るとき、私は夫の家族でも経験しましたが、「あのときはこうすればよかったな」とか「こうしなければよかった」とか、必ずそういう後悔って付きものですよね。それがまったくないというのは何という幸せなのだろうって思いました。こんな理想的な看取りができたこと、これは本当に幸せなことで、それが可能になったのは、このゆいま~る拝島で最期を過ごすことができたからなのですね。

ですから、家族の看取りというのはプライベートなことなのですけれど、こうやってみなさんにお話をしたいと思ったのは、あまりにいい経験だったので、自分だけで抱えておくのはもったいない、こういうことができるのだ、可能なんだということを、サービス付き高齢者向け住宅でできるのだということを知っていただきたくて、お話ししました。ご清聴、ありがとうございました。

注) ゆいま~るシリーズは「サービス付き高齢者向け住宅」が基本だが、ゆいま~る拝島は併せて「外部サービス利用型特定施設入居者生活介護」となっている。サービス付き高齢者向け住宅のサービスは安否確認や生活支援であり、スタッフに介護要員は必ずしも必要ではない。しかし外部サービス利用型特定施設入居者生活介護では、契約した外部の事業者をマネジメントして、訪問介護・訪問リハビリ・通所介護などのサービスを使いながら生活していくことができる。スタッフには、生活相談員1人、ケアマネジャー1人、要介護の入居者10人に対して介護士1人、要支援の入居者30人に対して介護士1人を配することを義務付けられている。日勤スタッフ1名に加えて、介護スタッフは早番、遅番、夜勤の体制を敷き、介護スタッフが24時間常駐している仕組みになっているので、今回のような看取りも可能になる。

素敵なフラダンス

館ケ丘とめじろ台のフラダンスサークルの皆さんが、

ボランティアとして来てくださいました。

素敵な踊りにスタッフも利用者の皆さんもうっとりです。

途中、紙芝居もしてくださいました。

とてもお上手で思わず見入ってしまいます。

スタッフや利用者にもフラダンスを教えてくださり、一緒に踊りました。

 

最後に、今日のお礼に手作りのレイをプレゼントしました

素敵なダンス、楽しい紙芝居、とても楽しいひと時でした。

八王子城跡見学

ドライブを兼ねて、八王子城跡の見学に行きました。

途中の銀杏並木や楓の紅葉がとても綺麗でした。

綺麗な景色を観て、車の中の会話も弾みます。

八王子城跡ガイダンス施設に到着です。

施設内はとても落ち着いていて、ゆっくり八王子城の歴史を学ぶ事ができました。

八王子城のクイズゲームもありました。

 

ガイドスタッフに説明を聞いて、外を散策しました。

素敵な風景に、しばし時間を忘れてしまいました。

最後はみんなで ハイ!チーズ!!

高島平団地全体のエレベーター改修工事

古くなったエレベーターを走行保護装置、地震対策強化が付いた新しいエレベーターに入れ替える工事をしています。

10月~来年の2月にかけて日程を組みながら工事をするとの事。

「ゆいま~る高島平」の2-26-2号棟には10月~11月にかけての停止案内が配布されました。

時間制限はありますが2機同時に停止の日もあり、その間は皆さんにフロントを終日開放して生活移動の不自由さを解消してもらいました。

おしゃべりに花が咲き、エレベーターが動いても時間を忘れて楽しんでいることもありますが・・・。

また、歩行困難な方は、予約をすると専門担当者付き添いのもと、階段昇降機を利用することができます。

【フロントで和む入居者(上)と階段昇降機(下)】

お部屋のほうも、10月より3期工事が始まり、来年平成29年春には7戸が増室されます。

高島平の地域を知っていただけるようなものや、

居室内覧会など、現在、様々な企画を考え中です!

暖かくなりましたら是非、高島平に遊びにいらして下さい。

毎週月曜日には見学会も行っています。

スタッフ一同、新しい出会いをとても楽しみにしています~♪

最近はすっかり秋らしくなったので通勤途中の道端の落ち葉や

黄色いコスモスがさりげなく季節を教えてくれていました。

私が「ゆいま~る福」に入居を決めた理由①

 

高齢者住宅に移り住む――いざとなると勇気が入るもの。

一人暮らしで、この先不安。子どもには迷惑をかけたくない。

ゆいま~る福に入居を決めた方は、どんな理由で住み替えを決めたのでしょうか。

 

「施設」ではなく、「引っ越して」今までどおりの暮らし

菅谷千枝子さん(75歳)の場合

大阪市内のマンションで一人暮らしをしています。生涯暮らすつもりで、60歳の時には車いすでも暮らせるように、廊下を広くしたり、トイレやお風呂を使いやすくしたり、家をリフォームしたんです。でも、ボランティア活動で特別養護老人ホームを訪問するうち、何かあった時はどうしようと不安になりました。独り身ですし、姉妹が近くに暮らしていますが、迷惑をかけられません。高齢者住宅や施設へ入ることを考え始めたんです。

働けるうちは仕事を続けたいので、大阪南部への移動が便利な場所を探していたら、奈良の有料老人ホームにたどり着きました。3度ほど見学に行き、入居者の話も聞いて、利便性も雰囲気もよかったので「入居するならここ」と思ったものの、100歳まで生きることを想定して、今後の必要経費を計算すると生活に余裕を持てそうにありません。決めかねていたところに、高齢者住宅情報センターから「ゆいま〜る福」を教えてもらい、説明会に参加しました。今後の必要経費を計算しても十分に生活が成り立ちますし、何より「施設に入る」ではなくて、ここに「引っ越してくる」だけで、これまで通りの生活が維持できることに魅かれました。

「サービス付き高齢者向け住宅に入る」と話すと、友人から「どんなサービスが付くの?」と聞かれます。「元気な時は今と同じ。ただ何かあった時に支援してもらえるのよ」と話します。万が一の時はもちろん、普段の生活での困り事も助けていただけるのでありがたいですね。ここでの生活が始まった、友人を招待して、こんな選択肢もあるということを知ってもらえたらいいなあと思っています。

(「福町通信」10号より転載)

母の介護を通して、

自分の身の始末は自分でという思いに

町田 洋子さん(73歳)の場合

仕事をリタイアした60歳頃から、高齢者住宅情報センターでいろいろ勉強させてもらったり、母の介護をする経験から、〝自分の身の始末は自分でせなあかん〟という思いをしっかり持つようになりました。

75歳までには高齢者住宅に移るというのは決めていましたね。ゆいま〜る福に決めたのは、この広さでこの価格だったら…というのが、決定的な理由。公害の町のイメージ、土地が低い、工場地帯、駅を降りてゆいま〜る福までの道沿いのお店は閉まっているなど、イマイチ雰囲気的に・・・と思ったけど、目をつぶることにした!

今住んでいる旭区は、10分足らずの距離にたくさんのスーパーマーケットがあって庶民には住みやすい町。それに比べると立地がね。この先、西淀川区がどう変貌するのかなと思っているところです。

私の人生を振り返ってみると、30歳過ぎに初めて親元を離れての賃貸マンションを借りて独立、マンションの購入、母の介護のために実家を建て替えての同居、そして、今回の引っ越しと、〝住まい〟は単に建物というのではなく、その時々の生きざまが反映しているとつくづく思います。ゆいま〜る福に参画させていただく中で、自分の人生を振り返ることができました。

この10年間は、仕事人間だった私が、働く以外のことを少しずつ学んで、生活者に変身していく期間だったように思います。ゆいま〜る福に引っ越したら、日々、三食食べて、寝て、普通の日常を1日送れたら、それだけでありがたいなあと。いずれ死んでいくということを視野に入れながら、できるだけ前向きに淡々とした日常を送りたいと思っています。

(「福町通信」8号より転載)

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入居を決めたきっかけは、それぞれですが、環境、価格、利便性、万が一のときの安心、でしょうか。また、元気なときは今までどおりの暮らしができるかも大きな決めてになっているようです。

ゆいま~る福は、木のぬくもりと、中庭を挟み三棟風通しのよい作りが魅力の「ハウス」です。居住者の「こうしたい」が形になった自慢のハウス。ぜひご自身の目で確かめてみてください。
ご関心をもたれた方は、ぜひ見学会にお越しください。お待ちしております。

☆見学会
11月24日(木):ランチ+コーヒー付800円
11月28日(月):ランチ無し
◇集合時間:午前10時30分~
◇集合場所:阪神なんば線「福」駅なんば方面改札口集合

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お問合せ・お申込みは
ゆいま~る福
0120-006-574
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バリ舞踊のひととき

10月22日、ハウスの集会室にいながら
バリ島旅行の気分を味わいました。

毎年この時期のお楽しみになっている
「バリ舞踊のひととき」。
福生市を拠点に活動されているNaga Jepang(ナーガ・ジパン)
(バリ舞踏家・荒内琴江主宰のダンスグループ)の皆さんが、
バリの伝統舞踊を踊りに来て下さいました。

天候が悪く室内での開催となりましたが、
間近で見る皆さんの踊りは、美しく、迫力があり、表情が豊かで
うっとり見とれてしまいました。
見に来られた方々は、
「あの指の動きはどうやっても真似できないねぇ、すごいね」
「練習いっぱいしてるんだろうね、上手だね」
「華やかで、楽しかったわ」
「キッズダンサーの踊りもすばらしかった」など感想を頂きました。

毎年来て下さるキッズダンサーの成長ぶりには、
私達もとても驚きました。
とても楽しかったです。
また来年も、ゆいま~る多摩平の森版、バリ旅行に行けますように。

 

自然に囲まれ、母の笑顔が増えた!――東京にいるときよりアクティブになった母

91歳のお母様とゆいま~る那須での暮らしを選択された櫛引順子さん。

東京から引っ越してこられた当初は、「思い切ってしまったかな」と不安もあったと言います。しかし、快適な木造住宅、豊かな自然と新鮮な食材に囲まれ、すぐに「大満足」に変わりました。

ころんで腰を痛めてから、好きな料理から遠ざかっていたお母様の美智さんですが、那須に来てから、おいしい野菜や生みたて卵に感動、IHキッチンにも安心して、再び料理を作るようになったそうです。「こんな笑う人だったのか」と娘さんである櫛引さんもびっくり。那須での暮らしぶりについて、お話を聞かせていただきました。

草花に囲まれたゆいま~る那須

ゆいま~る那須

櫛引順子さん(65) お母様・美智さん(91)と二人暮らし

2016年4月入居

■体験入居で、木の床に感激!

ゆいま~る那須に住んでいる友人にすすめられて、2015年9月に同居している母と体験入居(一泊)をしたんです。天然の八溝杉で作られた木造の戸建てで、木の床がとても気持ちよかった! これまで都会の集合住宅暮らしがほとんどだったので、「木造っていいなあ」とあらためて感じました。

近くに牧場(森林ノ牧場)があり、北海道出身の母は、「小さいころ、家の裏に牧場があって、おいしい牛乳をもらったわ」と懐かしそうにしていました。季節から栗拾いもして、母もここの環境が気に入ったみたいです。

その後、12月に契約を交わし、翌2月に退職、東京都多摩市の団地から、那須に引っ越してきたのが2016年の4月です。

心癒される森林ノ牧場

母との二人暮らしは20年になります。

私も定年が迫り、年金生活になったらどう暮らしていこうか考えていました。住んでいた団地のポストには「家賃分で購入できます!」とチラシが入ってきます。しかし、一生すみ続けられるかどうかわからないものに、老後の資金を使う気にはなりません。購入はやはり勇気がいります。都営団地も検討してみましたが、この先、定年後の年金生活で、母の介護をしながら、一生家賃を払い続けるのは難しいと思いました。新しい土地で、あらためてネットワークを作るのにも不安がありました。

先々の心配をしていたとき、友人からゆいま~る那須をすすめられたのです。ここなら、一括で家賃を支払えば、月々年金で暮らしていけるしくみがあるし、なにかあっても見守りのシステムが充実しているので安心です。友人も住んでいるので、心強い。幸い、弟が資金的に協力してくれたこともあって、母と移り住む決心がつきました。

■ゆいま~る号と物品販売がお気に入り

いざ引越しとなると、ずっと都会暮らしだったので、正直なところ、十分な検討をしないで思い切ってしまったかもしれないという思いがありました。不安も残っていたのですが、来てみると思ったより快適でした。

たとえば、これまでは、コンビニは近くにあるけれど、野菜やお魚、お肉など生鮮食料品を買うためには、少し離れたスーパーまで行かなければなりませんでした。母も一緒だと、バスを利用することになります。バス停から団地の入り口までは少し距離があって、天気が悪い日など、母と歩くのが大変だと感じるときもありました。

ここは、近くにコンビこそありませんが、「ゆいま~る号」(ハウス送迎車)が1日4便出ていて、時間を合わせれば、スーパーでも駅前でも病院でも行ってくれます。入居者にとって主要なルートを通ってくれるので、とっても便利。しかも、ゆいま~る号なら、住んでいるゲートの入り口まで来てくれる。共同のおかかえ運転手がいるようなものです。

母もすっかりゆいま~る号が気に入って、今では月に一度、病院の診察が終わったあとに買い物をして、外食するのを楽しみにしています。

まとまって住む利点も感じています。

うれしいのは、移動の物品販売の充実です。北海道の酪農品や天然酵母のパン、新鮮野菜などを定期的に売りに来てくれるのです。

私は、ここのパンがお気に入り。とってもおいしいので、一週間分購入しています。生みたて卵の販売もあります。味は格別。1つ20円でバラ売りしてくれるので、皆さん、「3つ」「6つ」と購入しています。買った日のメニューは「卵かけご飯」と決めています。絶品ですよ!

おいしいパンの移動販売

■散歩やラジオ体操、音楽イベントと盛りだくさん

「ゆる散歩」という週2回、住宅近くを30分ほど歩く会があり、参加しています。周辺は自然豊かで、季節を感じられてとっても気持ちいいです。

月に1度、母と牧場まで散歩しているのですが、ハウス内通貨のゆいま~る券*「朝ま~る券」でソフトクリーム、「昼ま~る券」で絞るヨーグルトが購入できるのが楽しみ! そういう意味で、都会では味わえない豊かな生活が送れると思います。

地域に開かれたゆいま~る食堂も併設されています。メニューを見て週1~2回くらい利用していますが、お刺身や麦とろ、ヒレカツ、てんぷらのほか、栗ご飯など季節の味も楽めます。また、そば店を経営していた入居者の方が週2回(月曜日と木曜日)、ゆいま~る食堂でそばを打ってくれるのですが、その日はよく利用しています。とってもおいしいんです。

ほかにも、ラジオ体操の会や、音楽イベントなどがあり、退屈になるときがないですね。

高齢者の皆さんは経験豊かなので、いろいろなアンテナを持っていて、情報交換も活発。それぞれの人生があり、皆さんのお話を聞くだけでも楽しいです。

ま~る券

自然観察会も行なわれています

■お母さんって、こんなに笑う人だったのね

91歳の母はもともと料理好きでしたが、一昨年ころんで腰を痛めてからあまり料理をしなくなっていました。加えて、ガスを使うことが不安になっていたようです。那須に来たら、IHキッチンで火が出ないから安心したようで、私が使っているのを見て母も興味を示しました。そして、「スイッチ押すのはあなたがしてね」と言って、私につきそってもらいながらもキッチンに立つようになりました。だしをとったり、煮物を作ったり、好きな料理をはじめるようになったんです。

母はきれい好きなので、ガス台もきれいにしておきたい気持ちはあるものの、掃除は大変ですよね。でも、IHだとさっと拭くだけできれいになるので、それも気に入ったようです。マイペースで、料理を作るようになりました。

友だちが畑のとれたて野菜をくださったのですが、母も「とりたてはおいしい!」と喜んでいます。昔は農家でなくても、庭先で家庭菜園をしている家も多かったですよね。母もそんな昔の暮らしを思い出したようで、「畑って、いいね」とニコニコ。ここにきて、母の笑顔がとても多くなりました。こんなに笑う人だったのかと驚いているくらいです。

■年金で、母と二人で暮らしていける!

生活費ですが、思いのほかかかりません。

夏は朝夕涼しいので、クーラーはほとんど使いませんでした。

冬はペレットストーブ(木を粉々に砕いて乾燥し、圧縮成形した木質ペレットを燃料とするストーブ)を使うのですけれど、それがどれくらいかはまだわかりません。ただ、壁に断熱材がしっかり入っているので、冬でも一度室内を暖めておけば、あまり寒くはならないようです。これからも、食費(外食含む)、光熱費など、年金で母と二人、暮らしていけそうです。

見守りシステムがしっかりしているのも安心です。緊急通報のボタン設置や生活相談にのってくれるフロントもある。これまでは、団地に知り合いもあまりいないし、母と二人でポツンと暮らしている感じでした。なにかあったら言いにいけるところがあるので、とても気が楽になりました。

にぎやかな「ゆいま~る食堂」。土曜に開かれている「ゆいま~る居酒屋」のようす

来年の春になったら、ゆいま~る那須の住人で作っている「農部会」で畑を一区画借りて、野菜を育てるつもりです。今から「練習」として、草取りや、農地を耕す作業を手伝わせてもらっています。ここでの暮らしも、だんだん忙しくなってきました。

安心しつつ、自由に、自然の中で母と暮らし、楽しい毎日です。

花も満開 笑顔も満開 小春日和の外出

小春日和の穏やかな日、利用者を連れてお出かけしました。

行った先は神奈川県立津久井湖城山公園花の苑地。

ガーデンテラスには綺麗な花がたくさん咲いていました。

 

 

 

 

利用者もスタッフも笑顔満開。

 

外出は本当に楽しいですね。

また、近いうちにお出かけしたいです。