この町が好きだから…,12年ぶりに故郷へUターン

皆さん、こんにちは。ゆいま~る厚沢部のNです。

私は、札幌から12年ぶりに我が故郷の厚沢部に戻ってまいりました。12年ぶりに厚沢部町を散策すると、自分が住んで居た頃とはだいぶ変わってしまって少々、寂しい気持ちになることもありますが、これから新しい厚沢部町、このゆいま~る厚沢部と共に歩んでいこうと思う今日この頃です。

今回は、ゆいま~る厚沢部の周辺にある温泉を紹介したいと思います。ゆいま~る厚沢部から北西に1.2kmほど車で走ると「俄虫温泉」という温泉があります。俄虫という風変わりな地名は「カムイウシ(熊が多い)」というアイヌ語に由来するそうです。でも私は厚沢部町で熊を見たことはありませんが…。大丈夫です。安心してください!!

俄虫温泉へ行く道路

緑に囲まれた温泉宿で、厚沢部町の名産物のメークインのジャガイモ料理を味わうこともできます。

豊かな自然と温泉が楽しめる厚沢部は、とてもゆったりと心をさせてくれます。離れてみてわかる故郷のよさを感じています。

 

居住者から学ぶこと~高齢者住宅の暮らしの中で~

ある日の出来事です。

その日は、いまにも雨が降りそうなお天気で、黒い雲が空を覆っていました。

雨が降りそうだから、「今日の植物の水やりはいらないかなぁ」と思っていたところ、フロントの前で植物が大好きな居住者のIさんに会いました。水やりをするつもりのIさんに、「今日は雨が降るみたいだから、水やりをしなくても大丈夫しょう」と声をかけました。「いや、やりますよ」と、Iさんの答えにビックリ!!

Iさんは、最近退院してゆいま~る聖ヶ丘に戻ってきました。体調が万全ではない中でも、植物を大事にしている気持ち、お花に対する深い愛情を感じました。居住者の方には、毎日いろいろなことを教えてもらいます。私も何事に対しても責任を持ってやることを改めて心に誓いました。

Iさんと一緒に談笑しながら、愛情たっぷり水を撒きました。

今年は、ランの花があまり咲かなかったけれど・・・。来年も素敵な花が咲くのを期待しています。

 

何気ない会話から育まれる信頼関係

今朝は、薄曇り。お部屋はちょっとムシムシしていました。

A棟Kさんにお声掛けして、朝ごはんにお誘いする。

「おはようございます」

Kさんは眠い目をこすりこすり

「今朝はなんだかムシムシするね~」と。

「朝ごはんに行きましょう!!」

「今日、僕はすき焼きが食べたいなぁ~」

「朝からすき焼きですか?」

「全然大丈夫だ、さっくりとしたトンカツもいいなぁ」

「それはボリューム満点ですね」

「今夜はすき焼き、お昼はとんかつですかね!」

なんて楽しい会話をしながら朝食のメニューをおいしそうに召し上がっていました。

何気ない会話のやりとりですが、Kさんの心や身体の状態を知るきっかけとなります。

居住者の方との日々の会話は、私たちスタッフにとっても大切な時間です。

♪玉川上水沿いに歩けば~自然と歴史が楽しめるまち

ゆいま~る拝島のUです。

ゆいま~る拝島は、都心からもほどよく便利でありながら、自然と歴史を楽しめるとても魅力的なまちです。

約61,000人が住む福生市は、西多摩の要所として栄えてきた歴史のあるまちで、江戸時代から続く造り酒屋、広々とした公園、玉川上水を中心とした散歩コースもたくさんあります。

ゆいま~る拝島の横には、玉川上水が流れています。玉川上水に沿っているこの緑道は1653年に玉川兄弟(小右衛門・清右衛門)により、造られたものです。江戸時代人口が増え、井戸や小川だけでは飲料水が足りなくなったため多摩川の水を江戸に引くことにしたそうです。

緑道として開園されているのは三鷹市の牟礼橋から福生市の平和橋までです。平和橋は拝島駅の目の前です。

緑の向こうに見える茶色の建物がゆいま~る拝島です。

6階から見た夕焼け。遠くに奥多摩と山梨の山々が見えます。

裏の公園にはロッククライマーがあり子どもたちの良い遊び場になっています。

 

 

多摩に住む魅力は自然の豊かさです

5月に入り、一日の気温差が激しく、TV等で話題になっています。

最低と最大の気温差が25℃以上ある地域もあるそうです。

ここ多摩市は、関東平野の南西端にあり、南は多摩丘陵、北は多摩川にはさまれているという地理的条件にあります。

夏は、都心から永山の駅に降り立つと、やはり緑が多いせいか、少しひんやりとします。

四季を感じられ、風が強く、日差しがきつい日もあるけれど、居住者の方からは、「いろんな木々の景色が素敵」、「自然の中にいるとはこういうことよね」との声をいただきました。

私自身もそういったことに目を向けられる、感じられる自身でありたいと思います。

 

 

 

「高齢者住宅の暮らし・住まい方」体験利用募集中です! 

ゆいま〜る聖ヶ丘はオープンから1年半を迎え、おかげさまで居住者の皆さんによる参加型の暮らしが広がっています。さまざまな課題はありますが、一つひとつ話し合いながら、課題の解決を目指していきたいと思っています。

さて、ゆいま〜る聖ヶ丘に現在、1室だけ空き室があります。そこで、このお部屋を利用して、「体験利用」をしていただくことにしました。高齢者住宅の暮らし・住まい方を実際に体験していただければと思います。

食事や設備、住み心地、周辺環境や暮らしの雰囲気などをご自身の「五感」で味わってください。

この写真が、体験利用いただくお部屋です。ゆいま~る聖ヶ丘のゲストルームとしてもお使いいただいています(居住者のご家族やお友達の他、どなたでも体験利用できます。角部屋1LDK、52.33㎡ 3口のIHヒーター付きのキッチン、トイレ、浴室が完備されています。収納もたっぷりあります)。

ゆったりソファにふかふかベッド。レースのカーテンからは、今の季節、心地よい風が入ってきます。

ベランダからは遊歩道を挟んでフロントが見えるので、スタッフを身近に感じる距離です。新緑のこの季節、聖ヶ丘の暮らしを体験していみませんか?

 

 

 

ゆいま〜る中沢:両親の入居。決め手は「今と先々の安心」でした。

【ゆいま〜る中沢】居住者インタビュー 娘さんの声

渡邉裕子さん(長女・60歳)

↓ゆいま〜る中沢の2階にある共有スペース「からきだの丘」。渡邊さんのご両親はゆいま〜る中沢への引越しのとき、書籍、写真集や絵などをたくさん寄贈してくださいました。この絵は、お母さまが描かれたものだそうです。

今年3月、ゆい〜る中沢のオープンと同時に、渡邉裕子さんのご両親が入居されました。92歳のお父さま、87歳で認知症を抱えるお母さま、2人の今と今後を見据えての決断について、キーパーソンである渡邉さんにお話をうかがいました。

Q:ゆいま〜る中沢を知ったきっかけから教えて下さい。

渡邉:私は一人っ子なので、両親のことがいずれ自分に100%かかってくるというのはずっと覚悟していたんですよね。実家は世田谷の祖師谷なのですが、母が認知症(要介護1)になり、料理をまったくしなくなったので、週に1度ぐらい通っていました。でも、やはり限界がありますよね。2年前に父が心臓を悪くしてペースメーカーを入れました。それもあってできないことが増えてきて…。このままだと私もストレスが溜まってきます。終わりがないと言うか、先が見えないですし。それでゆくゆくは両親が暮らせるところを探そうと思って、介護付きやサービス付きのところをネット検索したんです。

ゆいま〜る中沢を知る前に、新聞の折り込みで入っていた情報紙でゆいま〜る聖ヶ丘のことを読んで、これは面白いと思って見学に行ったんです。それ以外にも介護付きのところを見に行ったり。友人がデイサービスに関わっていて、私もそこで太極拳などを教えていたこともあって、デイの利用者さんの感じはわかっていたんですね。こういうところにゆくゆくは母親も世話になるかなと、母が認知症になる前からなんとなく思っていたんです。だから地域とのつながりを切らないように、ということは意識していました。

父は自立してやっていきたい人なので、介護付きの有料老人ホームは絶対に無理だろうと思いました。介護ではなくサービス付きがいい。そうしたことを考えているときに、ゆいま〜る聖ヶ丘を知り、中沢についてはその時に聞いたのか、あとでネット検索したのか、ともかく医療機関が近くにあって、建物の中にもクリニックや提携しているグループホームがある。すべてが完結していて、しかも私の家から近い。すぐに居室を抑えておかなければと思いました。

Q:入居は最初からご両親ふたりを考えてのことだったのですね?

渡邉:もちろんそうです。父はふたりじゃなければダメだと。母が認知症だったので、別々というのは考えられなかったんです。ゆいま〜る中沢に決めた理由は、母の認知症がもっと進んでも、階下にあるグループホーム(2014年開設予定)に行けるということ。また、父が体調不良になって入院しても、退院したらまた戻って来られるということ。そして自分の部屋で最後まで過ごすことができて、看取りまでしてもらえる。これは私としては決定的でした。

Q:お母様が認知症になられたのはいつだったのですか?

渡邉:3年前の正月に気がついたんです。正月のおせちがなんかすごく変だったんですよ。煮物が焦げちゃっているし、今まで作っていた料理を作らないし…。どうしちゃったのと思い、すぐに病院に連れて行ったら、認知症と診断されました。別の病院でセカンドオピニオンを取ったりしましたけれど、診断は同じ。薬は効きましたが、良くはならない。もうこれはしょうがない、と。

母はその頃から料理を自分で作らなければならないという発想がすっかり消えてしまいました。もともといい意味で言えば「おひいさま」みたいな人で、そういうところに戻っていってしまっているんです。

うちの両親は外国生まれで、父は親の仕事の関係でアメリカで生まれ、母はインドネシアのスマトラで生まれて10歳まで住んでいました。私の祖父がスマトラで仕事をしていたのですが、当時のことですから、女中さんや庭師、食事を作る人や子守りがいるそういう暮らしで母は育ったんですね。ですから認知症になってからは、そこに戻ったのか、料理を作るという発想がなくて、出されたものをおいしくいただく、というふうになってしまったんです。

母はもともとこまめに家事をやるという人ではなく、逆に父が日頃から料理以外のことはテキパキとやっていたのですが、認知症になると、そうか、そういうことだったのか…と、母のことがわかってきた部分もあったんですね。

Q:世田谷では、おふたりでどのような暮らしをされていたのですか?

渡邉:母が認知症になってからは、父が料理も家事も全部やっていました。生協で食材を頼んで、時にはミニバスで祖師谷に出ておかずを買ってきて…。

母は週3回デイサービスに行っていて、そこで昼食が出ていましたから、かろうじて栄養がとれていたけれど、父は自分が好きなものばかりを買ってきて食べていました。私が料理を持って行ったり、実家で作ったりもしましたが、限界がありますよね。持っていった料理が冷蔵庫でそのまま1週間置きっぱなしになっている、なんてこともあるわけです。

父に「同居しようよ」と勧めたこともあったのですが、父は40年以上住んでいる戸建ての家が気に入っていて断固反対。「ノー」だったので、もうしょうがない。だからへんな話ですが、私としては、父が栄養が足りなくてどうかなってしまっても、それはもうしょうがないと思ったんです。あなたたちの勝手でしょう、という気持ちにはなりましたよね。けれども、まあ、そうも言えないし、訪ねて行ったら亡くなっていた…となったら、それはねえ…。

父は「ピンピンコロリ」が口癖で、ずっと祖師谷にいるよ、と。私は父に、「ピンピンコロリなんていかないわよ。死ぬのは大変よ」と言ったんです。それでもまた「ピンピンコロリがいい」と言ったので、「それじゃあ、お父さん、お母さんの下の世話ができるの?」と聞いたんです。そばにいた母にも、「お母さん、お父さんにオムツを取り替えてもらいたい?」と聞いたら、「や〜なこった」って(笑)。「や〜よ〜」ですって。そういう会話も子どもに戻っているんです。「や〜なこった」なんて普通言わないじゃないですか。シチュエーションが子供時代にワープしてしまうんですね。あれはちょっと笑ってしまいましたけれど。

Q:ゆいま〜る中沢への入居を決めた具体的なきっかけは?

渡邉:去年の暮れに父が栄養失調みたいな感じになって病院に行くという出来事があったのですが、それが背中を押してくれました。もうちょっとこのままの生活は無理だろう、と。父本人は全然無理だと思っていないんですよ。それで私が言い含めたというか、押し切ったみたいな形だったと、父はそう言うんですが…。引っ越した後に喧嘩をしましたよ、そのことで。何を言っているんだ、冗談じゃない、と。まあ、自分の親なので言いたいことを言いますし、向こうも言いたいことが言えるんじゃないですか。ともかくそういうきっかけがあって入居を決めました。

中沢のオープンが最初は2月14日(の予定)だったですよね。バレンタインデーでちょうどいいねと言っていたのですが、私は早いほうがよかったのですが、でも、準備期間が短いからとても大変でした。

まずネックはお金のことです。印鑑などは父がきちんと管理していましたが、お金をどうやって集めて入居費用を賄うか、その資金繰りが一番大変でした。入居の準備と実家を売りに出す売却手続をほぼ同時に進めました。父が実家を売っていいと言い、わりとすんなり売れたので、それはよかったのですが、周囲6軒と接していたのでその分の測量が必要だったり…。次に実家のゴミの処理です。引越しにあたってゴミをなんとかしなければなりませんが、それも大変。毎日頭がパンクしそうでした。手帳がもう書くところないぐらいやることがあったんです。結果的にオープンの日がずれて3月になったのですが、ともかく忙しかったです。

Q:娘さんの出産のお手伝いで渡邉さんがスイスに行かれるとうかがいました。留守中の対応についてスタッフと具体的に決められたそうですが…。

渡邉:そうです。長女が結婚してスイスにいるのですが、初めての子どもがそろそろ生まれるので、私はあさって出発します。その間に夫もスイスに来るので、私たち夫婦が日本にいない時期が10日ほどあります。もしその時に父が重篤になったらどうしようかということで、先日、ゆいま〜る中沢のショートステイの担当者とケアマネジャーと私の3人で綿密に打ち合わせをしました。留守中に母の具合が悪くなることはないかもしれない。でも、父にもしものことがあった時に、母を一人で部屋に残しておくことはできない。父が入院を要するようだったらその対応をしてもらい、母にはショートステイに入ってもらう。父が退院したら、病後しばらくはショートステイを利用し、配膳からすべてをやっていただく。必要があれば、看護師さんに来てもらえる。そうした話を具体的に決めた時に、本当にありがたいなと思いましたね。今回はそこまで必要がなくても、この先、父も母もどんどん年をとっていくわけですから、そういうことをまかなっていただける、それがゆいま〜る中沢の良さですよね。

Q:入居されてのご両親の感想や、私どもへの課題を最後に。

渡邉:まだ全部がオープンしているわけではないし、利用者の方も少ないですよね。この前、運営懇談会があったそうですが、出席者がまだ数人だったとか。父が「もっとみんな言いたいことを言えばいいのに」と言っていました。

父としてはレストランのことが言いたいのだと思います。父はアメリカ生まれというのもあって、日本人なのですが、和食がダメなんですよ。何か食べに行くとなるとフランス料理やイタリア料理。中華もまあまあ好きですが、和食の、とくに煮物とかが全然ダメなんです。ですから中沢にはレストランがある、ということも魅力だったのですが、初日に行ってみてがっかり。和食が中心で、父にとってはレストランのメニューは全然ノーだったんです。それが困りました。生協でいろいろなものを取ったり、週に1回ぐらい多摩センターまで行って、好きなものを買ってきて食べたりしているようですが、そのあたりが今ネックになっていますね。徐々にここでの暮らしに慣れていってもらいたいのですが、年をとると食べ物ってすごく大事なんですよね。

あと、まだオープンから間もないので仕方がないかもしれませんが、ゴミの出し方一つ、もっと早く利用者に知らせてほしいですね。父が以前住んでいた世田谷より多摩市はゴミの分別が徹底していて、父にとってはゴミの出し方がわかならい。ゴミ箱がきちんとしたのが遅かったのも気になりました。

父にしてみれば、新しい生活はわからないことだらけ。部屋の中のスイッチ一つ、前とは違い、そのせいでわからない。「いくらやっても動かないよ」となってしまう。トイレも使い方が違います。だから「わからない、わからない…」と混乱して文句になる。越してきた最初は文句ばっかり言っていました。

父たちと私たちでは時間軸が違うので、ゆっくりやっていければいいと思っています。自分たちの時間で納得してもらわないと、私がいくら、ああよ、こうよ、と言ってもダメなんですよね。施設に馴染むまでは仕方がありません。最初の頃は私がほぼ毎日来て、あれこれやっていました。今も1週間に2〜3回は来ています。でも、なるべく私は手をかけないようにしたいんですよね。

ここに馴染んでくれて、「ああ、やっぱり良かったな」と言ってくれないまでも、文句が出なければいいかなって思っています。

Q:引越しによってお母様の認知症が進むということはなかったですか?

渡邉:母は満足してくれているみたいです。認知症は進まなかったですね。たぶんそうだろうと思っていました。というのも、母は性格的にさっぱりしているんです。認知症ですから直近のことは忘れますが、引っ越してしまえば落ち着く。というより、母は落ち着きたいんじゃないかと思ったんです。

引越しの時、ダンボールの荷物が積み上がったら、「私はどうするの?」「私はどうするの?」と不安がったんですね。いくら説明してもわからない。ここに来てからも、「どうするの?」「また行くんじゃないの?」と。だから「違うよ」って。部屋に張り紙も貼って、「ここにずっといるからね」って。「次に行くときはお墓だからね」って(笑)。「じゃあ、ここにずっといていいのね」と母が言うので、「そうよ」と。そんな母に、「お母さん、ここ、狭い?」と聞いたら、「ちょうどいい」って。母にとってはすごくシンプルでいいんですよ。

私は、母の性格からみて、きっとそうなるだろうなと思ったんですよね。母は誰とでも仲良くできる人だし、憎まれ口とか全然きかない人だし、そういう意味でおっとりしている、どこでも順応できる人だと思ったので、引っ越すことで母の認知症が進むとは思わなかったんです。むしろ父が認知症っぽくなってしまうかなと思いました。実際、ちょっとそうなりました。男の人は何からなにまで把握していないと気が済まないところがありますよね。父はすごく土地勘のある人で、前の家だったら全部わかっていた。ところがこちらに来て、車で連れて行っても、「わからない」「わからない」…。先ほどの部屋のスイッチと同じですが、周囲のこともそうで、顔の表情がこわばって変わってしまい、これはどうかな…と、私も夜寝られないようなこともありました。今はだいぶ顔つきも普通に戻ってきて、先日、娘(次女)を連れて父に会いに行ったら、孫の顔を見て、にこ〜っといい顔になって。こんなに私に対してと違った顔をするのかと思ったぐらい柔らかい表情で、よかったなと思いましたけれど。

☆ 渡邉様のお父様 安藤秀之様(92歳)ミニインタビュー

Q:ゆいま〜る中沢の住み心地はいかがですか?

安藤:まだ入ったばかりで気ぜわしく、住み心地までいかないです。今までは二階屋に庭があってという家だったので、こういうマンションに住んだことがないわけで、比較といっても感じがぜんぜん違うものですから。

Q:1日はどのように過ごされているのですか?

安藤:家内が認知症になり、デイサービスに行っているものですから、2年ぐらい前から私が炊事をしています。食べるのは好きですけれど、作るのは初めての経験ですから、三度三度作るのはかなり苦痛ですね。

食事以外は別意に困らないのですけれど、退屈極まりないと言いましょうか。そのうち慣れれば自分なりに何か見つけてやると思うんですけれど、今のところは一日が退屈で退屈でしょうがいないです。

ここの最初の謳い文句に、映画が見られるとか、お入りになった皆さんで何かをするみたいな話もあったのですが、まだお住みになっている人が少ないから何もないものですから、さっぱりですわ。皆さんと顔を合わせていろいろな話し合いができたり、ゲームなんかができるといいですね。あるいは外に出ると自然がたくさんあるから、大自然の中でいろいろと楽しみも出てくるんじゃないかと思ったんですが、それもまだ機会がないので…。これから充実していくだろうと思いますけれど、とにかくまだ初歩の段階ですものね、建物や内容がですね。

Q:ゆいま〜る聖ヶ丘でもスタートから半年ぐらいして、いろいろな入居者同士の活動が出来てきました。
ところで、今回の引越しをどのように思われていますか? また、こうなってほしいというご希望があったらぜひ聞かせていただけますか?

安藤:娘がかなり強引なんですよ(笑)。私は92歳ですからね。家内も年をとって、この先、2人が別々のところにおるんじゃ行き来するにも時間がかかる。とにかく自分の家のそばにこういうものができるから引っ越して来いと、かなり強引にやられまして(笑)。ふたりきりの時に何かあったらどうするんだって、まあ、そう言われればしょうがない。娘のそばに引っ越すより他に手がないかなと思いました。祖師谷は40数年住んだところですから、まわり馴染みがありましたけれどね。初めてのところに行くというのはどうだろうかと非常に考えましたけれど、これもしかしやむを得ないのかなと思いまして。

娘は忙しい中、全部やってくれました。気の毒をかけているなと思います。

家内が病気にならず、料理ができたら違っていましたけれど…。

今困っているのは食事ですね。親父の勤務の関係でアメリカで生まれたもので、そしてふつうの日本人とちょっと毛色が違う、なんと言いますか、完全な和食的な存在ではないものですから、朝は必ずパンとコーヒー、それにフライドエッグとかがいいですね。ここ(のレストラン)で和食ばかりですと、ギブアップでして。そういうことで困っているのは食事です。

サービス付き高齢者向け住宅に咲く れんげ草

5月に入り、周りの木々が芽吹き始め、本当にあっという間に新緑の季節を迎えました。

那須の魅力は、なんと言っても自然の豊かさです。今日は、「ゆいま~る那須」から見える風景を紹介します。

A棟の中庭に植えた、れんげ草も一斉に花を咲かせ、見る者の目を楽しませてくれています。一つ一つは可憐な花ですが、群生している様は圧巻で、皆ふと立ち止まってしまいます。

レンゲ草は、かつて稲作にかかせない天然の肥料としても広く利用されていました。春の田んぼに一面に広がっていたレンゲ草の光景は、いまや懐かしい光景かもしれません。

今の時期、ゆいま~る那須食堂入口からのみえる牧草畑では、牧草の刈り取りの真っ最中です。機械で、牧草を刈り取りながら、そのまま、海苔巻のようにくるくるとまわして、楕円形の形にします。これを白いカバーで包み、冬まで発酵させます。

牧草の緑と、カバーの白と、空の青がきれいです。朝、晩、居住者の方は、この近隣の景色をながめながら、ウォーキングしています。

那須の暮らしは、自然の中に、暮らしがあること。四季折々の木々や山々、空を感じることができます。