嗚呼!排泄ケア。心にナイフをしのばせて@広報担当ヘルパー日記
↑ここ数日で、ずいぶんと暖かくなりました。我が家の近くにある無人農産直売所には、紅白の梅の花がいけられています。目が覚めるように梅の花びらが開いていました。
【スクーリング7日目】
今日は、「排泄の介助」「レクレーション体験学習」です。
今日のメインは、なんといっても「排泄の介助」です。私たち受講生の中で、一番ドキドキと不安が入り混じったのはこの講義です。今日は、布製のオムツ、紙オムツのやり方、ポータブルトイレへの誘導等について学びました。まずは、介助される側になり、オムツをしてもらいます。人からオムツをされるのは、赤ちゃんの時以来です。はじめは布オムツをしてもらい、それから紙オムツに交換されるという流れです。みんなに見られながら、股を開かれ、恥ずかしい気持ちでオムツをしてもらいました。(服の上からですが…)
教科書には、「排泄を自分自身で管理できるということは、人間にとって最も基本的なニーズであり、健康的な生活を維持する上で重要なことです。排泄の世話を受けることは、気がねや遠慮をしたり、プライドが傷ついたりなど、様々な精神的な苦痛を伴います。したがって、介護者は排泄の援助を受ける利用者の不安や苦痛を理解した上で、深い思いやりをもって介助することが大切です。」と書かれています。
自分が介助される側ならば、一番抵抗があるのは、排泄です。「排泄を人に頼むのは申し訳ない…。トイレにも行けなくなってしまったんだ…。失敗して、衣類や寝具を汚してしまったらどうしよう…。」いろいろな不安が頭をよぎります。
排泄という、最もプライベートな部分を、他人の力を借りなくてはいけないということに、やはり抵抗感があります。介助する側、介助される側は、対等関係にあるべきですが、やはり排泄に関しては、どうしても介助される側には、「排泄は汚いこと、人には見せたくない。」というタブーの気持ちが強いのが、否めません。
小学校の時を思い出してみると、授業中にトイレに立った子がからかわれたり、女性のトイレには、排泄音を消すための、流水の人工音が流れる機械装置もあります。私たちの文化の中で、「排泄」というのは、隠すものであり、あまり声を大にして語られることではないように思います。
そういったことを考えると、介助する側が「排泄」というプライベートな部分を、実際に援助する中でどう配慮しながら行うかということが大切なことであり、また介助される側も必要以上にタブーにしない開かれた場づくりというのも、大切であると感じました。それは、小さな時からそういう場がないとなかなか難しいのかもしれません。
「うんち」や「おしっこ」を当たり前のように明るく語る場ということが、必要だと感じています。そして一方で、「恥ずかしい」という気持ちも、とても人間らしいものであると感じています。
介護の目的は、どうご利用者さんの自立を援助していくかということです。援助があれば、時間がかかってもトイレに自分で行けるということは、とても大切なことです。自分で排泄が出来るということは、やはり「自分が自分であるため」のとても大切な根っこです。たとえ1回失敗したからと言って、すぐにオムツということになれば、私だったら生きる気力がなくなるでしょう。
「自分でトイレに行けるうちは行く!」ということ、この当たり前のことを支えること、それがいかに人に生きる意味を与えているのか、それは私たちが想像する以上に大きなことなのかもしれません。