あたたかい日常の一コマ

ゆいま~る神南の日常は、周りの多くの方々、そして居住者のみなさんの心づかいが、様々なかたちとなって 支えられています。何気ない日々の中にある みなさんからのあたたかな思いをご紹介します。

居住者 Hさんのご家族から、実家の庭で実ったという八朔を「みなさんで食べてください」と、たくさん頂戴しました。『実家の庭に 鈴生りに実っている』のだそう。 うらやましいですね!

ゆいま~る神南では、毎日の安否確認の方法として、名前入りの木札を午前10時までにフロント前の専用ポストに入れていただきます。木札を出しに来られた時に八朔をお持ちいただけるよう、頂いた翌日の朝にはフロント前にも置かせていただきました。居住者の中にはウォーキングやモーニングへのお出かけの時、早朝に木札を出される方も多いためです。

フロント前

朝のラジオ体操に参加の方は、体操後にお持ちいただきました。

<コミュニティスペース>ウッドテラス

こちらの招き猫、「みんなに福が来るように飾ってね」と N・Sさんから最近頂戴したもの。 可愛らしいですね。

フロントでお客様をおむかえします

何とも愛嬌のある こちらのお雛様。「福々しい顔が気にいって買っちゃったの」と N・M さん。「可愛らしい顔をみんなにも見せてあげてね」とのこと。

フロント

こちらの絵、ゆいま~る神南の入っている集合住宅の既存住民の方より「よかったら飾ってもらえますか?」と先日、お話をいただいたもの。近々、引越しをされるそうで処分する前にお声をかけてくださいました。優しい絵がコミュニティスペースをより 明るくしてくれます。

↓ ほっこりさせてくれる U さんの己書(おのれしょ)。 差し変っていると「あ!変わってる」と、みなさんを楽しませてくれています。

みなさんのやさしい心づかいが 色々なところに広がって、あたたかい空間がつくられています。

 

 

年を重ねて変化しても自分らしく暮らす

ゆいま~る拝島に住み替えて8年の山田節子さん。今もお元気ですが、それでも入居当初よりは体力も変化してきたと言います。年を重ねても工夫をしながら、自分らしく暮らされている様子を聞かせていただきました。

趣味のちぎり絵の前にお雛様を飾って。にこやかな山田さん

 

――ゆいま~る拝島にいらっしゃる前は、どのようなお暮らしでしたか。

「練馬区に住んでいました。子どもたちは皆独立し、夫と二人で暮らしていました」

――住み替えを考えた理由は何だったのですか?

「夫が他界して、いよいよ一人で住んでいるのが耐えられなくなりましてね。風で戸がガタガタするだけで怖かったですし、出かけて夜遅くなったとき真っ暗な家に帰ってくるのが嫌だったんです。

住み替えるなら、新しい環境に慣れることも必要だし、早い方がいいと思いました」

――ゆいま~る拝島はどのようにして知ったのでしょうか。

「高齢者住宅は、8カ所くらい見学しました。その中で、「定年時代」(朝日新聞のシニア向け情報紙)に載っていた『ゆいま~る拝島』が印象に残ったのです。いろいろな会社があるのですが、施設ではなく住まいである、自由に暮らせるというのがとてもよかったのです。
ゆいま~る拝島へは、最後に見学に行ったのですが、これまで見学に行ったところと比べて、良いところがたくさん見えました」

――決め手は何だったのでしょうか。

「ここの環境ですね。隣には玉川上水が流れていて自然がいっぱいですし、だけど駅から徒歩4分と近いですしね。
入居人数もちょうどいいんじゃないかと。あまり大規模なところは、コミュニケーションが取りにくいのではないかと思っていたものですから。
夫が亡くなって1年で住み替えました。決断は早かったですね」

――住み替えて、これまでと違うと思ったことは何ですか。

「一番の差は、安心・安全であること。それが一番大きいです。家にいるときは一人だったので、最初に言った通り、風が吹いて戸がガタガタいうだけで不安でした。でも、ここでは、そういうことはありません。出かけても安心だし、帰ってきても真っ暗ではありません。ありがたいと思っています。人の気配がある、それだけで嬉しいのです」

――住み替えてからのお暮らしの様子を教えてください。

「そんなに変わったことはないです。気ままに過ごしてしています。
趣味が結構多いんです。こちらに来て、ちぎり絵を習いました。近くに教室があって、4年間通ってマスターしました。
また、もともとは、茶道を習っていました。茶道をやっていると、自分が自然体になる、落ち着くんです。その雰囲気が大好きで、20年間続けていました。今はひざが悪くなって、正座が出来なくなりましたので……。でも、今でも、お茶を点てるくらいは続けています」

ちぎり絵作品。丁寧な花びらが本物のようです
迫力ある山のちぎり絵作品

――現在、楽しみなことはありますか。

「ここで皆さんと俳句を習っています。近所にNHKの俳句講座の先生がいらして、お教室をいくつか持っていらっしゃって、コロナ禍でお休みだったんですけれど、通信で教えてくださることになってね。月に一度、皆さんの作品を取りまとめて先生に見ていただきます。皆さんの俳句を書く役目なので、その時は集中します。それを先生に送って、添削してもらっています。
あとは、歌を歌うのが好き。簡単なカラオケの機械を持っているので、うちで歌ったりしています」

真剣に句を読む山田さん

――1日はどのように過ごされているか教えてください。

「朝は、6時から6時半くらいに起きます。私は、部屋が散らかっているのは嫌いなので、まず片付けます。それで食事の支度をします。ひだまり食堂(ゆいま~る食堂)でも、一汁三菜というふうに、いろいろと並びますよね。自分で食べるときも、おぼんに並べて、確認していただきます。一品だけとか偏らないように気を付けています。
今は家にいることが多いので、俳句を読み直してみたり、見たいテレビドラマを選んで見たり、ゆっくり過ごしています」

――お買い物はどうされているのでしょう。

「買い物は生協を利用しています。食品や、日用品まで手に入るので問題はないですね。自炊もしますが、食堂も利用します。メニュー見て、これは私には作れないとか、これは食べてみたいとか、疲れたなぁという時に利用します。便利ですね」

 ――デイサービスに通われているそうですね。

「週に1度通っています。体操をするのですが、それが大好き。
座ってできる体操や、みんなでする合同体操、機械を使ったりしもします。一人ひとりに合った回数や時間があって、指導してくれるんです。最後は脳トレ。連想ゲームをしたりね。
だいたい13時半くらいからスタートして、17時近くまでやります」

 ――とてもお若く見える山田さんですが、若さの秘訣は何でしょうか。

「いろいろなことに興味を持つということじゃないかしら。
今年で88歳になりましたので、前と違って何かと疲れることもあります。そういう時は、昼寝をするときもあります。無理をせずに、疲れたら休む、を心掛けています」

――今はお元気ですが、これから不安なことも出てくるかもしれません。

「これから、年とともに自分の体が利かなくなって、だんだんと弱ってくると思います。私は、こういう時はどうしたらいいんだろう、とシミュレーションをするんです。
だけど、昨日失敗したんです。入浴していて、お風呂の栓を何の気なしに抜いてしまったら、立てなくなってしまって。手すりが3カ所ついているんですけれど、ひざが弱いので力が入らない。入浴剤を入れていたので、お風呂の中もツルツルしてしまって。緊急通報装置を押して助けてもらいました。
年を取ると、若いころは何でもなかったことにも対処できなくなる、思わぬところに落とし穴があると思いました」

 ――これまで病気もなく過ごされてきたのでしょうか。

「いえ、病気は多い方でした。長い入院をしたこともあります。でも、これは私の考えですが、病気というのは、早く発見して、良い先生に出会えば良くなる。絶対に悲観しないことが大切だと感じています」

 ――今はコロナ禍で自粛していますが、落ち着いたらやりたいことはありますか。

「植物が好きなので、近くにある植物園とか、そういうところに行きたいですね。
あと、だんだん年をとると外に出かけるのが大変になるんです。ちぎり絵は4年間教室に通っていましたが、元気だから通えたのであって、今は辞めていますのでね。なので、ゆいま~る拝島で、たとえば気軽に参加できる俳句の会とか、そういうのがたくさんあると、参加される方もいらっしゃると思いますね」

入居時とは少しずつ体も変化してきますが、生協やデイサービスを活用して、暮らしを楽しんでいらっしゃる山田さんです。素敵なちぎり絵の作品がまたできるように、たとえば、出張で教えに来てくださる先生を見つけるとか、居住者の皆さんに無理なく楽しんでもらえように、何かできるといいなと思っています。

エレベーター前に展示してある句集

(2021/2/16インタビュー)

お雛様を飾りました

季節が冬から春への移り変わりを感じる
三寒四温の気候。
花粉の飛散情報も聞こえてくるようになり
暖かな春はもうすぐそこまで来ています♪

ゆいま~る多摩平の森ではお雛様を飾りました。
例年ですと入居者の方々にお手伝いをいただき
和気藹々と飾りつけを行いますが・・・。
今年も昨年と同様にスタッフが飾りつけを行いました。
コロナ禍のご時世…仕方がないこととは思いながらも
来年の春こそは入居者の方々と和気藹々とした時間を
過ごせることを心から願います。

圧倒的な存在感の立派な雛人形。
入りきらないお道具は横の棚に飾っています。
季節を彩る見事な雛飾りに
入居者の方々、地域の方々が
足を止めて見入ってらっしゃいます。

入居者より寄贈いただいた
とても可愛い手作りの『つるし雛』

助かります!!

コロナの終息も先が見えない中、感染症予防のための様々な品の

価格高騰や品薄が未だに続いており、ハウスとしても確保には

苦労しています。

そんな中、厚沢部町商工会様より「アルコールジェル」を

寄贈いただけるという嬉しいお話をいただき、早速届けて

いただきました。

毎日何度も手指の消毒に協力してくださっている入居者の皆さんも

「あら~良かったねぇ。」と一緒に開封。

記念に撮らせていただきました♪

 

厚沢部商工会様

本当にありがとうございました!!

さっそく使わせていただきたいと思います。

【3月見学会】ゆいま~る厚沢部

新型コロナウイルス感染症の影響拡大に伴い、見学者・視察者の皆さん、
入居者の皆さんの健康・安全面を第一に考えまして、見学・視察は
お断りさせていただいております。
今後の予定については、状況を踏まえてご案内をしてまいりますので
よろしくお願いいたします。
※ただし、入居相談等の個別のご見学につきましては要相談とさせて
 いただきますので、先ずはご連絡をお願いいたします。
詳しくは、ゆいま~る厚沢部フロントへお気軽にお問合せください。
ゆいま~る厚沢部
(フリーダイヤル) 0800-800-1767

フレイル予防プログラム 最終回の報告です。

昨年10月からスタートしたフレイル予防プログラムの試みが、2月9日が最終回となりました。ゆいま~る神南にお住まいの方と外部からの3名の参加者9名でスタートし、コロナ禍ではありましたが、リタイアされる方もなく無事に終わることができました。参加者は、最初は「ついていけるようにがんばります」の声もありましたが、終わってみれば皆さんの参加率が高く、コロナ禍の中で自粛生活が続く人も多く、運動不足ということもあったのかもしれません。外部参加の方は、冬に入り、風の強い日や雪交じりの日もある中、通っていただきました。

終了に当たり、2月4日には座談会を開催し、皆さんからざっくばらんな感想やご意見を伺いました。参加者の方からは「自分一人ではできないけれど、みんなでやることで続けられた」「歩いてここ(ゆいま~る神南)まで通うことが目標で、最後まで通うことができてうれしい(外部参加者)」等のご感想をいただきました。また、フレイル予防プログラムを参加する前と参加した後の体の変化などについても情報交換をし、皆さんの中でも色々な気づきもありました。


座談会では活発なご意見をいただきました。

最後の2週は、10月から始めた健康レッスンをプログラム①から順に振り返って行いました。
そして最終回は特別メニュー。インストラクターと相談し、マスク生活が続く中、顔やのどの筋肉の衰えを防ぐための口の周りやのどの筋肉を大きく動かす運動や、2チームに分かれて同時に別の童謡を歌うなど、脳トレ要素のある動きを取り入れました。そして最後は、明るく元気な卒業にしようと、舟木一夫の「高校三年生」を歌と振りで、元気よく「ヤー!」で締めくくりました。

終了後、外部参加の方とのお別れで、しんみりする場面もありました。これもみなさんが一緒の時間を過ごし、継続されたからだと思います。


記念写真

今回のフレイル予防プログラムの試みは終了ですが、今後もご自身の体調と相談しながら、毎日の習慣として運動や健康管理を続けていっていただきたいです。最後に、第一興商のインストラクターの方にも楽しくこのプログラムを導いてくださりありがとうございました。
(終わり)

(追記)
数日後、外部から参加された方から、素敵なお手紙をいただきました。
スタッフ一同、嬉しい気持ちでいっぱいです。またお元気な姿でお会いしたいです。

居住者の皆さんに好評です!!

毎週月曜日は京王移動販売の日。

食品や日用雑貨など、「ゆいま~る中沢」にいながらにして購入できるので、大人気です。

「どうしても、このメーカーのこの商品がいい!!」「来週、これがほしい」という居住者のリクエストにもこたえてくれます。

ただ、これまでは地べたに並べた商品を選ぶスタイルで、かがむのが大変でしたが、このたび購入しやすいように台を購入。皆さんに喜ばれています。

台の上に商品が並び、見やすくなりました
週に一度のお買い物は皆さんの楽しみの一つです

喜ばれていると言えば、「ゆいま~る中沢」目の前のバス停にベンチを置いたこと。ベンチの組み立ては居住者の方が手伝ったくださいました。

さっそく「便利だわ~」という声があがっています。
多摩センター駅までバス5分なので、活用されている方が多いのです。

コロナに気を付けながらも、より便利に、お買い物しやすく、外出しやすくなったようで、スタッフ一同も喜んでいます。

節分 ・豆まき

 

今日は花菜の節分!

少し前から、節分のカード作りをしました。鬼の顔や柊の葉、豆などを各自で色画用紙に張り付けます。達筆の利用者さんに『節分、鬼は外福は内』と書いていただくと、カードがとても立派になりました。気に入った方にはご自宅に持って帰って頂き、花菜の壁にも貼りました。もう、あっという間に花菜の壁は、鬼だらけです。

 

いよいよ鬼の登場です。

皆さんの反応は?

「キャー、鬼―」の期待を裏切り「あはは・・」と、大笑いでした。

節分の由来を聞いては感心されたり、〇×クイズでは、〇✕カードを片手に積極的に参加されました。こっそりと答えを聞いてから、カードを変えてしまう方もいらしゃいました。

答えに一喜一憂されます。

次のお楽しみは、「シュークリームの鬼作り」です。

シュークリームに、生クリームを絞って乗せ、髪に見立てます。

その上に、アポロチョコをチョンチョン!と乗せて鬼の角の完成です。

可愛い!最後にチョコペンで顔を書きました。それぞれの個性が光ります。

あまりにも美味しそうなので、作成途中でパクリと齧る方も・・・

全員の物が出来上がるとおやつタイム。ボリュームがありましたが「美味しー」と、完食されました。

最後のメインイベント、豆まきの開始です。豆が鬼になかなか届かす、なんと鬼が、一人一人の所まで行って当ててもらっています。

「鬼は~外!福は~内!」鬼はお行儀よく玄関から逃げ出しました。

花菜の一年、幸せが訪れますように・・・

 

居住者に聞く戦争体験【14歳で海軍へ。たまたま助かった命】

グループハウス中沢にお住いの村井英郎さんは御年94歳。
若いころの戦争体験について、貴重なお話を聞かせていただきました。
「ゆいま~る」の居住者の中には、過酷な戦争体験をお持ちの方がいらっしゃるということをあたらめて知る機会となりました。
居住者インタビュー「特別編」としてご紹介いたします。

散歩を楽しむ村井さん

 

14歳で海軍に志願

村井さんは、昭和16年、高等小学校を卒業して14歳で海軍に志願し、入隊したそうです。志願した理由は、「当時の若者にとってあこがれだったから」。
「電信柱に軍隊募集のポスターが貼ってあったんですよ。かっこいいなと思ってね。親には内緒だったから、合格通知が来たとき、母親は寂しそうな顔をしていましたよ。当時は嫌だと言えないからね。送り出すしかなかったんでしょう」

志願と言っても14歳だったので、航空兵か通信兵にしか志願できず、通信兵として横須賀海兵団(神奈川県)へ入団。「何も知らずに入ってしまった」村井さんはその厳しさに早くも後悔し、1週間後に面会に来てくれたお兄さんを前に、涙があふれて仕方なかったそうです。

2カ月の訓練を経て、久里浜海軍通信学校(神奈川県)でさらに9カ月教育を受けた村井さん。モールス信号を覚え、1分間に120字くらい書けるようになったそうです。
通信学校にいたころ、村井さんたちはある日「東京見物」に出かけるように指示がありました。その日は昭和16年12月8日。真珠湾攻撃の日でした。村井さんたちはもちろん一切聞かされていませんでした。偶然なのか、機密のためだったのか、今となってはわかりません。

9カ月後、無事に卒業したものの、成績があまり良くなかった村井さんは、軍艦に乗ることができませんでした。しかし、軍艦に乗った人たちは皆、米軍の攻撃で撃沈、亡くなってしまったそうです。
「成績が良くないことは自慢になりませんが、今となってはよかった!」

 つらかった軍事訓練

村井さんは陸上勤務となり、航空隊に転属を命じられ、木更津基地(千葉県)に配属。木更津では、米軍の空襲にあったこともありました。
その後、村井さんたちの部隊は千歳基地(北海道)に移動しますが、軍隊の訓練はつらいものでした。

「ずいぶん暴力を受けました。殴られるんですよ。手では殴らない。鉄のパイプでね、尻を叩くんです。毎晩、毎晩。痛いですよ。一番痛いのは、5回目くらいなんです。10回目くらいになると麻痺しちゃって、あまり痛く感じない。私が勘定した中で1番多かったのは21回でした」
「理由なんかないんですよ。古い兵隊が難癖をつけて、一人ずつ出て来いと言って。夕方寝る前に『集合!』と言われてね」
80年近く前の記憶でも、はっきり覚えている村井さん。「5回」「21回」というリアルな数字がすらすらと出てきます。忘れようにも忘れられない当時のつらさが伝わってきます。

 命の儚さと重さを…

その後、ラバウルを皮切りに、サイパン、ペリリュー島、フィリピンのセブ島と、激戦地と言われる南方への移動が続いたと言います。幼い村井さんは、通信学校で無線通信の教育を受けたものの、実際は電報を運び届けるという仕事だけ。もちろん、中身も知らされていません。昭和18年くらいの頃は、まだ日本が強く、「アメリカの戦闘機が撃墜されるところをずいぶんと見た」そうです。

ラバウルからサイパンに移動するとき、忘れられない別れを経験します。
「今はコロナが流行っているけれど、当時はマラリアが流行っていてね。私と同年のOが罹ってしまって。最初はOが先に出発する船に乗り、私は後から出発の船に乗ることになっていた。Oがマラリアになって、42度を超える熱が出て、船に乗れなくなった。それで、私に『先の船に乗ってくれ』と船の順番を交換したんですよ」
先の船に乗った村井さんは無事にサイパンにつきますが、後の船はアメリカの潜水艦に攻撃されて皆亡くなってしまったと言います。
「あのとき、マラリアが流行っていなければ、私は後の船に乗って亡くなっていた。Oとは同い年でずっといっしょだった。Oは長野県出身で、顔もよく覚えていて思い出しますけどね。本当は親御さんに話してあげたかった」
こうした偶然が重なって生きてきた村井さんを通して、命の儚さと重さを感じます。

サイパンからペリリュー島、さらにフィリピンのセブ島に移動することになった村井さん。7~8トンもある輸送船で、一般人を乗せた別の船も船団を組んでついてきていたそうです。
ところが、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、船が傾いてしまいます。
「幸いなことに、なかなか沈まなくて、5、6時間経ったころに、救助船が来て助かりました。私はケガをしていなかったので救助船に乗れましたが、けがをしている人たちは乗らせてもらえなかった。私の足をつかんで『兵隊さん、助けてください』と言った女性がいましたが、助けられませんでした。自分で歩けない人は、船に乗せてくれない。たぶん、その女性は船と一緒に沈んでしまったのではないかと思います」

漂流することは本当に大変なことだそうで、「聞いた話ですが、必死に泳いでいるうちに疲れて、浮かんでいるものにつかまる。長く漂流していると、つかまっているのもしんどくなってきて、手を離せば沈んでしまうけれど、あまりにつらくて、生きている方が楽か、沈んだ方が楽かと思ってしまう、と」。
そこまで極限の選択を迫られるのだそうです。

船への攻撃はたまたま1回だけ、魚雷が当たったのは村井さんがいた反対側。「たまたま助かった」こうした経験はキリがないと村井さんは話してくれました。

「負け戦」と感じるように

セブ島についたのは昭和19年。
山の中の農家からトウモロコシなどの農作物を取って、飢えをしのいでいたそうです。「日本の兵隊が怖いのか、若い女性は一人も見ませんでした、皆怖くて隠れていたんです。一度、農家のおばあさんが、何も言わないで、私の顔をうらめしそうな顔をして見ていたことがあります」

19年も年末になるころには、村井さんも負け戦だと感じるようになったそうです 。
「アメリカ軍が上陸してくるときは、艦砲射撃がすごかった。戦車とか、私たちが知らないようなすごい武器を持ってきた。防空壕を作っていたけど、全部射撃で壊されてしまう。そこにいられなくて、後方に下がった」
しかも、アメリカ兵は戦いに力は入れておらず、雨が降る日は休んでいるし、日曜日もお休み、昼だけ攻撃に来て、夜はさっさと自分たちの陣地に戻ってしまっていたそうです。「無駄な攻撃はしてこない。日本の兵隊なんか相手にしていなかった」と痛感したと言います。

また、当時、聞いた話では、アメリカ軍の攻撃の先頭は黒人で、そのころから黒人差別があったと感じていたと話してくれました。

特攻の「命」を受ける

戦争も末期に入り、村井さんたちがいた航空隊でも特攻隊として飛び立つ若者たちがいたといいます。
「出発前は赤飯やぼた餅、ふだん食べられないものが食べられる。でも、全部食べずに、残っている人に食べてくれと言い残して、出撃していったと聞きました」と村井さん。行きたくなくても従うしかありません。

そして、ついに、村井さんにも「爆弾を抱えてアメリカの戦車にぶつかっていけ」という命令が出ます。
「5キロくらいの爆弾でした。まあ、5キロくらいですから、軽いんですよ。だけど、こう、背中に背負ったらね、ずいぶんと肩に食い込む感じがしてね。歩こうとするんですけど、足がすくんじゃってね。その時、死ぬというのがどんなにか嫌なことかと思いました…」
戦車が通る道路に穴を掘って隠れていて、戦車が来たら飛び出して行ってぶつかる、という命令でした。行けば帰ってこられません。

「ところが、直前になって、現在の状況を後方の本部に伝えるという命令が出て、私は背負った爆弾を下ろして報告に行って、危機一髪、逃れることができたのです」
言葉も出ない体験です。

戦争に負けて日本へ

8月15日は、フィリピンのセブ島で迎えましたが、まだ負けたのかどうかわからなかったそうです。アメリカの飛行機がビラを撒き、そこには、「日本は戦争に負けた、出て来い」と書かれていたと言います。
降伏した日本兵たちが1カ所に集められ、半年くらい待ってようやく日本の船が迎えに来ました。

「帰りの船に乗るところでは、フィリピン人が大勢来ていてね。悪いことした日本人を覚えている。埠頭に並ばされた日本兵たちを見て、フィリピン人が指をさしたり、名前を呼ばれたりすると、船に乗ることはできないんです。こっちにこいとアメリカ兵に引っ張っていかれて、戦争犯罪人になってね。そのあと、どうなったのか」
よくある名字の人は皆呼ばれてしまったそうです。村井さんは無事に帰国船に乗ることができ、ようやく日本に戻ることができました。

若い人たちへの思い

村井さんは、千葉県銚子市出身。まずは実家に行きますが、空襲で家が焼かれてしまい、親の出身地であった同県東金市に向かいます。その後、東京の姉のところへ行き、ようやく村井さんの戦後がスタートします。

75~76歳のころ、「孫たちに伝えたいと思って、『最下級兵の軍隊経験』という冊子を自分でパソコンを使って作りました」と村井さん。当時の南方の地図や、写真も入れた冊子です。

もともとは5人兄弟で、村井さんが志願して最初に入った横須賀海兵団に面会に来てくれた一番上のお兄さんは、沖縄で戦死、今は兄弟もおつれあいも亡くなりました。

縁あって、ゆいま~る中沢に入居され、現在はグループハウス中沢に住み替えられている村井さんは「戦争は絶対反対です」とおっしゃいます。

貴重な戦争体験を聞かせていただき、本当にありがとうございました。

お元気で暮らしを楽しんでいます

(2021年2月7日インタビュー)

 

鬼は~外~~~!福は~内~~~!

2月2日は節分でした。

コロナ禍で、ここ、ゆいま~る中沢の鬼さん👹たちは、今年は出没せず、

静かな節分になってしまいました。

でも、福を呼び寄せるべく、みんなで美味しい節分ランチを

福々した笑顔で、頂きました!

次はバレンタインの2月14日に、中華ランチが登場します!

なぜ、バレンタインに中華なのか!?疑問に思ったら確かめに来てください♪

 

有料ショートステイ、空室あります。

コロナ感染防止策を徹底しつつ、見学も随時受け付けております。